松平信綱
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^ 遠江国徳利里が出生地とも伝わる(『大河内家譜』2)
^ ただしこれまでの扶持米は幕府に収公された。なお、この500石は家光が信綱を特に評価して与えたという
^ 『寛政重修諸家譜』に記録がある。ただし『神奈川県史』通史編2などは相模に当時与えられるほどの領地の余裕は無く否定されており、寛永10年(1633年)といわれる。
^ このとき細川忠利が信綱に祝儀の品を贈っている
^ のちの若年寄
^ これは家光が行政事務の停滞に苛立って老中の任のみに専念させるためといわれる
^ 重昌の嫡男・板倉重矩が父と共に出陣を信綱に嘆願したが信綱は拒絶した
^ 11月28日付の土井利勝阿部忠秋ら連署による水野勝成宛の老中奉書では「今度嶋原天草きりしたん蜂起之儀今程は相済み申すべく候。然れば彼の跡以下御仕置として、上使松平伊豆守ならびに戸田左門これを差し遣はされ候」とある(『下総結城水野家文書』)
^ 熊本藩主の細川忠利には日本の恥辱であると批判された。ただし信綱は城内のキリシタンに衝撃を与えるために行なったのである。だがオランダ側も2人が戦死し、城内の一揆側からも矢文で誹謗されて中止を余儀なくされた(『通航一覧』第6)
^ 杉山頼母、西村半三郎、野間市兵衛、ほか3名。
^ 信綱は井伊直孝、阿部忠秋、酒井忠勝らと協力して補佐した(『徳川実紀』第4篇)
^ 東京大学地震研究所『新収日本地震史料補遺』p.175

出典^ 大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P20
^ (『豊橋市史』第6巻。『大河内家譜』2)
^ 『信綱記』『明良洪範』『家乗附録』
^ 『徳川実紀』第2篇
^ 『江戸幕府日記』
^ 岡田 1987, p. 146.
^ 岡田 1987, p. 312.
^ 山内忠直書状
^ 1月26日付の忠直書状
^ 忠直書状、2月6日付
^ ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』(中央公論社、1994年) p.95
^ a b 村山(2003) p.148
^ a b 井上和人『新編日本古典文学全集64 仮名草子集』注釈書 1999年 p.22-24
^ a b 丸山俊明『京は大火!大地震?そのとき京人は、どうふるまったのか』2019年 p.12-14
^ 妙法院史研究会編「妙法院史料」1巻 尭恕法親王日記 p.28
^ 三上(1996) p.101
^ 『甲子夜話 三篇5』平凡社(東洋文庫) 1983年 p.84-85
^ 大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P285。
^ 大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P285。
^ a b 大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P286。
^ 大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P287。
^ a b c 朝倉治彦 三浦一郎 『世界人物逸話大事典』 角川書店 平成8年2月、937頁。
^ 大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P242、P243。
^ 大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P216、P217、P286
^ 大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P42
^ 『名将言行禄』。朝倉治彦 三浦一郎 『世界人物逸話大事典』 角川書店 平成8年2月、P936
^ 『名将言行禄』。朝倉治彦 三浦一郎 『世界人物逸話大事典』 角川書店 平成8年2月、P936、P937

参考文献

岩田祐作『鎖国を完成させた男 松平伊豆守信綱』(文芸社、2004年)

岡田章雄『天草時貞(新装版)』(吉川弘文館、1987年)初版本は1960年発行。

中村彰彦『知恵伊豆と呼ばれた男 老中松平信綱の生涯』(講談社、2005年)のち文庫

大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)

朝倉治彦 三浦一郎『世界人物逸話大事典』角川書店 1996年、P664

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