松平信綱
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寛永12年(1635年)10月29日、それまで兼務していた小姓組番頭を罷免された[注釈 7]。11月には寺社奉行や勘定頭、留守居などの職制を制定。11月15日には月番制も定め、将軍直轄の体制を固めて職務を円滑に進めることができるように改革を進めた。

寛永13年(1636年)4月に家光が日光参詣に赴いた際、信綱は江戸に留まって江戸城普請監督を務め、12月の朝鮮通信使の日光参詣では惣奉行として随行した。

寛永14年(1637年)10月16日には家光を自邸に迎えて盛大に饗応した。
島原の乱

寛永14年(1637年)10月末に肥前国島原肥後国天草郡などでキリシタン一揆が発生した(島原の乱)。信綱ら首脳陣は当初、板倉重昌[注釈 8]石谷貞清を派遣し、さらに日根野吉明鍋島勝茂寺沢堅高松倉勝家ら九州の諸大名に鎮圧と加勢を命じた。しかし一揆勢は原城に立て籠もって抗戦し、戦闘は長期化した。

当初、幕府軍の総大将は板倉重昌であり[注釈 9]、信綱は戸田氏鉄と共に一揆鎮圧後のお仕置、つまり一揆が鎮定してのちの処分を仰せつけるために派遣されことになった[6]。だが寛永15年(1638年)1月1日に重昌が戦死。石谷貞清も重傷を負ったため、代わって信綱が幕府軍の総大将に就任することになった。

1月11日には篭城する一揆軍に対してオランダ船のデ・ライブ号に要請して援護射撃をさせた[注釈 10]。1月28日に副将格の戸田氏鉄が負傷するなど一揆の抵抗も激しく、信綱は立花宗茂水野勝成黒田一成ら戦陣経験がある老将達と軍議を行い兵糧攻めに持ち込んだ。この結果、2月下旬には一揆の兵糧はほぼ尽きてしまい、2月28日までに原城を陥落させた。信綱は一揆の総大将である天草四郎の首実検を行い、さらし首とした。このとき信綱の家臣6名も戦死[注釈 11]し、手負い103名であった。3月1日には原城を破却して捕らえた者は斬首してさらした。また松倉勝家寺沢堅高両名も一揆を招いた責任ありとして処罰を言い渡した。
幕藩体制の完成

島原の乱の後、一揆鎮圧の勲功を賞され、寛永16年(1639年)1月5日には3万石加増の6万石で川越藩に移封された[7]。信綱は城下町川越の整備、江戸とを結ぶ新河岸川川越街道の改修整備、玉川上水野火止用水の開削、農政の振興などにより藩政の基礎を固めた。また、キリシタン取締りの強化や武家諸法度の改正、ポルトガル人の追放を行い、オランダ人を長崎の出島に隔離して鎖国制を完成させた。

寛永15年(1638年)11月に土井利勝らが大老になると、信綱は老中首座になって幕政を統括した。寛永16年(1639年)8月に江戸城本丸が焼失すると、その再建の惣奉行を務めた。慶安元年(1648年)4月に養父の正綱が死去した際には銀100枚を賜ったが、その遺領は実子の松平正信松平正朝に継がせて自らは拒絶した。この頃は家光実父の台徳院(秀忠)、生母の崇源院の法事奉行を務めている。
家綱時代

慶安4年(1651年)4月の家光没後はその息子で第4代将軍となった徳川家綱の補佐に当たり[注釈 12]、家光没後の直後に起こった慶安の変を7月に鎮圧した。承応元年(1652年)9月に老中暗殺を目的とした承応の変も鎮圧した。明暦3年(1657年)1月の明暦の大火などの対応に務めた。
最期

寛文2年(1662年)1月18日に病気に倒れて出仕できなくなり、嫡男の輝綱が代理として出仕した。1月19日に小用がつかえたが服薬して回復した[8]。1月21日には将軍の上使として大久保忠朝が派遣された。1月26日には病が再発し、死を悟った信綱は他の老中へ暇乞いして遺言まであった[9]。1月27日には久世広之、1月29日に本多忠隆らが派遣されて茶・菓子・薬を賜った。このため見舞いの使者がおびただしく訪れた[10]。3月になると危篤状態となり、3月15日に老中の阿部忠秋に嫡子・輝綱のことを頼んだという。

3月16日の夕刻に老中在職のまま死去した。享年67(満65歳没)。跡を長男の輝綱が継いだ。
方広寺大仏(京の大仏)建て替えへの関与エンゲルベルト・ケンペル方広寺大仏(京の大仏)のスケッチ[11]寛文年間(万治年間とする史料もある)に方広寺大仏は損壊したため、江戸幕府の主導で建て替えられることになった。

寛文2年(1662年)5月1日(新暦では6月16日)に、寛文近江・若狭地震が発生し、京都全域に被害をもたらしたが、この地震で豊臣秀頼の造立した銅造の方広寺大仏(京の大仏)が損壊した[12](地震発生前から、経年劣化などで既に大仏は損壊していたとする説もある[13][14])。


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