松島湾
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石斛(せっこく)は野生ラン科植物で宮城県辺りが野生の北限といわれる。松島周辺では「イワタケ」の別名がある。花の開花時期は5月下旬から6月初旬で、ピンクの花が咲く。絶滅危惧種だったが、瑞巌寺境内の老の枝に着生している原株から増やして、現在は鉢植えの土産になっている。
松島の眺望
松島四大観節内の全座標を示した地図 - OSM
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歌川広重六十余州名所図会 陸奥 松島富山眺望之略図』(江戸時代・安政期)

松島湾周囲の松島丘陵や島の高台には「松島四大観」(まつしましだいかん)[8]と呼ばれる修景地点が散在している。これらは、江戸時代に仙台藩の儒学者・舟山萬年によって選ばれた「塩松環海四山」に由来する[9]

壮観(.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯38度20分25.9秒 東経141度9分7.1秒 / 北緯38.340528度 東経141.151972度 / 38.340528; 141.151972 (壮観(大高森より見る景色))):東松島市にある宮戸島大高森からみる景色。標高105.8メートル。他の三箇所は視界の方向が限定されるのに対して、この場所には四方を遮る物がなく広大な視界を得られるのが特徴である[10]。松島湾に対しては東端から西方向を眺める形となり、奥松島の島々の他、遠く船形山奥羽山脈)が一望出来る。夕陽で真っ赤に染まった松島の風景写真として度々用いられる。

麗観(北緯38度23分48.4秒 東経141度6分22.5秒 / 北緯38.396778度 東経141.106250度 / 38.396778; 141.106250 (麗観(富山より見る景色))):松島町の富山にある大仰寺よりみる景色。標高116.8メートル。南方向に松島湾や奥松島を眺める。湾や島々が整然と見えるこの場所は、江戸時代に大淀三千風によって編まれた句集『松島眺望集』や、他の文献でも言及されている。また1876年(明治9年)の巡幸明治天皇もここを訪れて風景を観賞した。ただ、手樽湾が干拓されたために、現在の麗観と過去の麗観は異なるものになっている[10]

幽観(北緯38度21分11.6秒 東経141度3分18.3秒 / 北緯38.353222度 東経141.055083度 / 38.353222; 141.055083 (幽観(扇谷より見る景色))):松島町と利府町の境界部にある扇谷からみる景色。標高55.8メートル。東南方向に塩竈湾を眺める。扇状に開ける視界はそれほど広くないが、静かなたたずまいから幽観と称される[10]

偉観(北緯38度19分9.7秒 東経141度4分2.6秒 / 北緯38.319361度 東経141.067389度 / 38.319361; 141.067389 (偉観(多聞山より見る景色))):七ヶ浜町の代ヶ崎の多聞山からみる景色。標高55.6メートル。北方向に塩竈湾、さらに奥の松島湾、奥松島を眺める。東、西、北の修景地があるのに南を欠くのは惜しいと考えた舟山萬年が調査を重ねて付け加えた場所である[10]

その他の展望施設節内の全座標を示した地図 - OSM
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観光用の展望施設はないが、797年延暦16年)に征夷大将軍坂上田村麻呂が絶賛した「長老坂」(北緯38度22分6.9秒 東経141度2分44.3秒。現・宮城県道144号赤沼松島線)からの眺望が古くから著名[11]

その他の展望台としては、「西行戻しの松」(北緯38度21分59.4秒 東経141度3分10.5秒 / 北緯38.366500度 東経141.052917度 / 38.366500; 141.052917 (西行戻しの松公園))、新富山(北緯38度22分32.1秒 東経141度3分49.4秒 / 北緯38.375583度 東経141.063722度 / 38.375583; 141.063722 (新富山))、松島城(いわゆる天守閣風建築物)、塩竈と松島海岸一帯が望める「双観山」(北緯38度21分9.3秒 東経141度3分44.5秒 / 北緯38.352583度 東経141.062361度 / 38.352583; 141.062361 (双観山))、扇谷[12]などがある。また、松尾芭蕉が松島に滞在した際に宿泊した熱田屋(瑞巌寺参道入口付近)の跡地にある商業施設の屋上が無料開放されている[13]。大観山は現在ホテルの敷地内であるため、ホテルの利用客しか入れない。

かつて松島湾を見晴らせる松島タワーがあったが、解体された。

(壮観)大高森の眺望

(壮観)大高森の眺望

(麗観)富山の眺望

(麗観)富山の眺望

(麗観)富山の展望台

(幽観)扇谷の眺望

(偉観)多聞山の眺望

西行戻しの松公園の眺望

双観山の眺望

松島城展望台

松島周辺の空撮

五大堂の眺望

松島観光船とカモメ

2008年の松島

雪月花松島と月観瀾亭西行戻しの松公園の桜

松島は月見の名所として著名で、画題にもなってきた[1]。松島の月は、14世紀には中国にも知られるほど著名で、代の薩都拉がその著書『雁門集』において「雄島煙波松島月」と記している。

伊達政宗豊臣秀吉から伏見桃山城にあった茶室を譲り受け江戸の藩邸に移築し、その後、仙台藩2代藩主伊達忠宗が松島に移させたこの建物は、松島遊覧に訪れる仙台藩の姫君や側室、あるいは江戸幕府巡見使などの接遇、宿泊の場所として利用されると同時に月見の館としても利用され「月見御殿」と呼ばれた。後の5代藩主伊達吉村がこれに「観瀾亭」と名付けた[14]

1643年寛永20年)には、儒学者林春斎がその著書『日本国事跡考』において、「松島、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳、与丹後天橋立・安芸厳島為三処奇観[15]」と記し、日本三景という括りが始まったとされるが、この日本三景の原典にも松島の月が出てくる。この原典もあって、日本三景に各々「雪月花」をあてる場合、松島には「月」があてられる。

17世紀後半になると、松尾芭蕉延宝年間に「武蔵野の月の若生えや松島種」と詠んで松島の月に憧れ、『奥の細道』の冒頭でも「…松島の月先心にかゝりて…」と記して江戸を発っている。

1922年大正11年)12月3日アルベルト・アインシュタインが月見をするため松島を訪れた。東北本線仙台駅から(初代)松島駅に到着し、松島電車路面電車)に乗り換えて五大堂前電停に着いた頃には既に16時を過ぎ、十三夜の月が上っていた。それを見たアインシュタインは、「おお月が…おお月が…」と言ったまま絶句したという。その後、「どんな名工の技も、この美しさを残すことはできない」と同行者に言ったとされる。

以上のように、松島は「雪月花」の「月」があまりに有名で、松島温泉も月見風呂をイメージ写真に使用している。「」については、年に数回積もる程度であるためほとんど見ることは出来ないが、積雪があるとプロのカメラマンのみならず、アマチュアの写真愛好家も集まってきて、主に五大堂越しの松島の雪景色をフレームに収めている。「」については、展望台でもある「西行戻しの松」がの名所として著名である。


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