松岡修造
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自分が本当に好きなものはテニスなんだ」という事に気付かされた松岡は、そうしたぬるま湯的環境(松岡はこれを「甘え地獄」と形容している)となっていた慶應高校での学生生活を捨て、自分自身を鍛え直す為に高校テニス界の名門校として知られていた柳川高等学校への転校を決意する[18]。この決断は両親に激しく反対された上、学校の教師からも当初は松岡が留年を恐れて転校を決心したと受け止められ、「学校のテニス部に入っていれば、成績が悪くても大学に行けるようにしてあげるから・・・」と心配された。しかし松岡の決意は固く、父を必死で説得し、柳川で必ず推薦の枠をもらって大学に進学することを条件に転校を許される[19]
1984年 柳川高校時代

1984年、柳川高校の2年生に編入入学。松岡はすぐさまテニス部に入部し練習を始めた。当時の同校テニス部は福井烈らを指導してきた田島幹夫監督の下スパルタ教育で生徒を鍛え抜く事で有名で、選手は全員丸坊主で他校の選手とは馴れ合わずいつも一堂で集まり、号令の下きびきびとした態度で試合に臨む等全てが軍隊式の様相を呈しており、そのハードな練習や上下関係の厳しさから全国的に恐れられていた。その噂通り田島監督の指導は厳しく、スマッシュを失敗すれば、イージーボールをネットに掛ければ、酷い時は言葉遣いが柳川弁になっていなければ叱られ、その都度ラケットで叩かれた。学校のない日曜日などはそんな練習が朝6時から夕方の6時まで続いたという[20]。しかし何かを求めて柳川にやってきた松岡にとってはこうした恐怖の練習でさえ、毎日新しい自分を見つけられると思えば嬉しくもあり、寮生活にも慣れ友人も出来て監督の指導も愛情の表現だとわかり始めると、次第に毎日の猛特訓も楽しくて仕方が無いものに変わっていった[21]

柳川高校入学から2ヶ月後、松岡は「ウィンブルドンへの道」と題された国内ジュニア大会へ出場する。この大会は当時世界で通用する日本の若手を育てるという目的で開催され、ここで活躍した選手の内4名をヨーロッパ遠征のメンバーに選出し、ウィンブルドン選手権全仏オープンのジュニア部門への出場チャンスを与えるというものであった。この大会で松岡は当時全日本ジュニアランク1位の太田茂を破り優勝する。本来であれば優勝者の松岡は当然メンバーに選出されるはずであったが、この海外遠征の期間がインターハイの予選期間と重なってしまった為、柳川のチームか自身を優先するか悩み、結局田島監督に相談した上で派遣を辞退する。そうして臨んだインターハイではチームの期待に応えシングルス、ダブルス、団体戦の全てを制し三冠達成に貢献。特に団体戦で優勝した事はそれまでは個人として勝つことしか知らなかった松岡にとって今までにない感動となり、仲間達と本当の喜びを分かち合うことが出来た。いつしか柳川は松岡にとって心の故郷となっていたのである[22]
1985年 ヨーロッパ遠征

しかし翌年再び「ウィンブルドンへの道」で優勝するも、またもやインターハイ予選の時期と重なってしまい、今度ばかりはどちらを取るか本気で悩み抜いた松岡は田島監督に加え母にも相談した。両者は「チームメイトのことを考えろ!」「学校に迷惑をかけることは絶対に許しません」と、インターハイを優先すべきだと助言した。だが松岡は「柳川高校を一年間休学し、また一年後に戻るという条件でウィンブルドンに行く!」と、ヨーロッパ遠征を選択する決断をし、同校を休学[23]。二ヶ月間の遠征で出場した全仏オープンジュニアでは、シングルス1回戦で古庄エドワルドを7-5, 6-7, 9-7のフルセットの激戦の末下し、大会第2シードのトーマス・ムスターとの2回戦に進出、辻野隆三と組んで出場したダブルスでもスイス人ペアとの1回戦を勝利し、クリスター・アルヤード(英語版)/クリスチャン・ベリストローム(英語版)組との2回戦に進出[24]。続いて出場したウィンブルドンジュニアではシングルスで大会第1シードのレオナルド・ラバージェ(英語版)との3回戦まで進出するなど[25]、一定の手応えを掴む実りのある遠征となった。
ボブ・ブレットとの出会い?プロ転向へ

遠征を終えた松岡は東京に戻り、休学中の間毎日のように桜田倶楽部に通い詰め昔の仲間と練習を続けていた。しかしこの時点においても松岡は一度たりともプロになるとは思っておらず、テレビで毎年のグランドスラム大会を見てジミー・コナーズビョルン・ボルグジョン・マッケンローらの活躍を目にしても、ごく普通のテニスファンのように「すごいなぁ」と思うだけで、プロになるんだという強い決意も野望も一切抱いていなかった。これは当時、彼らのようにプロとして華々しく活躍する日本人選手が居なかったことも理由の一つであったが、何よりも松岡自身が自分には到底プロの世界で活躍する才能など無いと思っていた事に他ならなかった[26]

ある日、飯田から「世界的名コーチのボブ・ブレット(英語版)が来日するらしいので、自分が何とか段取りをつけるから、練習を見てもらわないか?」と声をかけられた。松岡が詳しく話を聞くと、上述のヨーロッパ遠征時に出場した全仏オープンジュニアでプレーしていた所をブレットが偶然通りかかり、その場に居た日本人カメラマンの田沼武男に「この子、なかなか面白いかもしれない」と話し、それを聞いた田沼が旧知の間柄であった飯田に伝えた所、飯田がそれならば所用でやってくるブレットに頼んでみようと考えたという事であった。その希望は叶い、ブレットが練習を見に訪れ、30分程度の打ち合いも行った。だが、ブレットは練習が終わると握手を求めるついでに「明日、アメリカへ帰る。サヨナラ」と一言述べただけで帰ってしまう。自身のテニスに対する感想やアドバイスを期待していた松岡は拍子抜けした。柳川を休学して東京に戻ったものの、時期を見て柳川に戻り大学への推薦入学を目指すだけで終わってしまう自分への不安が、練習を見てもらえることによって一気に解消していくような気がしただけであった[27]

翌日、そんな松岡の下に田沼から電話があった。「修造、ボブからの伝言だ。明日にでもアメリカに来い。日本に居たら強くなれないよだって・・・」「やっぱり君の力を認めてくれたんだよ。よかったな・・・」。ブレットは彼を空港まで送った田沼に、松岡宛てのメッセージを残してくれていたのである。これを聞いた松岡は「ほんとですか・・・」と言って絶句したまま、何も言えなかった。「ブレットがそう言ってくれるのなら、本当に明日にでもアメリカへ行こう」。このたった一言の「明日、アメリカへ来い」というブレットの言葉が、松岡の人生を大きく変え、世界へと向かわせたのである[28]

アメリカ行きを決意した松岡は早速この事を両親に伝える。当初反対すると思っていた父は意外にも「好きなようにやれ!」と最早見放すかのように松岡の決断をあっさりと認めたが、今度はその話を聞いた母が「まだ高校も出ていないのだから、アメリカに行くならせめて大学を出てからにして欲しい」と強く反対した。これに対し松岡は、まず渡米先の現地のハイスクールに通って卒業し、アメリカの大学に進学するという条件で泣きながら必死の説得を行った。子供の頃から言い出したら絶対に聞かない松岡の性格をよく知っていた母はこの説得で決意の固さを知りようやく納得し、同年10月のジャパン・オープン・テニス選手権でシングルス予選を勝ち上がりツアー本戦初出場を果たした後に松岡は単身アメリカへ渡った[29][30]
アメリカ生活

1985年11月、アメリカに渡った松岡はブレットの手配でフロリダ州タンパにあるパーマー・アカデミー・ハイスクールに通いながら、タンパ近郊のウェズレーチャペル(英語版)にあるハリー・ホップマンが創設した名門テニスクラブとして名高い「ホップマン・キャンプ」でテニスの練習を見てもらうようになる。ホップマン・キャンプで多くの外国人選手に混じりひたすらボールを追い、体力を強化するトレーニングを積む練習の日々は松岡に大きな充実感と喜びを与えたが、その一方で困ったのが言葉の壁であった。日常英会話程度であれば身振り手振りを交えやり過ごせたが、ハイスクールの授業は全く理解できず現地の知り合いもブレット以外誰もいない。そこで松岡は決心し、自分の周囲から日本語の本/雑誌や音楽テープに至るまで辞書を除く全ての日本語を排除し始め、更に高校時代から書き始めた日記も英語で書くよう心がけた。数ヶ月後になるとこれが功を奏し相手の言っている事が理解できるようになり、それにつれて自分の言いたい事の大部分が何とか伝えられるようになっていた。この努力の甲斐もあり翌年の5月にはハイスクールを卒業。奨学金も貰い約束通りアメリカの大学へ進学しようとした矢先、ブレットから「腕試しにプロの試合に出てはどうか」とまたしても人生の転機となる言葉をかけられる[31]

松岡はこの何気ない提案に対しても自分がプロの試合で勝てるわけがないと渋ったが、ブレットは「つまらない恐怖心を持つな!人間には思いもよらない能力がある。5年間頑張ってみろ。運がよけりゃシューゾーは世界100位内に入る力がある」と松岡を力強く叱咤激励した。実際の所自分の実力がテニス王国のアメリカでどの程度通用するのか試してみたい気持ちもあった松岡は、この提案に乗り本格的にプロ大会への出場を決意する[32]

手始めにブレットは松岡を当時のATPツアー最下位カテゴリで、誰でもエントリーできるサテライト・トーナメント(英語版)に出場させた。このトーナメントは同一国で4週にわたって開催され、その4週の大会で好成績を収めた上位選手のみが5週目に開かれる大会に出場、そしてこの5週目のトーナメントで勝ち上がることによって初めてATPポイントの獲得に繋がるという仕組みであり、更に当時の松岡は当然ATPポイントもない選手であったため予選からの出場であったが、エントリー条件も低い分参加人数も多いこのトーナメント群では予選からの場合7試合を勝ち抜いてやっと本戦に出場出来るという厳しいものであった[33]

そういった状況下の中、軽い腕試しのつもりで出場した松岡であったが、予想に反し4週全ての大会で本戦に勝ち上がり5週目の大会にも進出。ここでも勝ち上がり、結局最初の大会でATPポイントを8ポイントも獲得した。この結果に松岡同様驚いたブレットは「シューゾー、いっそのこと、大学に行かずにプロになってみれば?」と勧めた。その時までアメリカの大学に進み、そこでテニスをやろうと考えていた松岡にとってこればかりは流石に即答できず悩んだ。だが元々世界の選手を相手にテニスをしてみたいとの思いで海を渡ってきた松岡にとって、その夢が叶うプロの道へ進むことは抗い難く、大学進学を選んだとしても在学中にまたプロになりたいと思うぐらいなら、今プロになることも同じ事だと考えた松岡はプロ転向を決意する[34]

しかし、ここでも一番の問題となったのが反対されるに決まっている両親の承諾をどうやって得るかという事だった。そこで松岡は「二年間やってみてダメだったら大学へ行く」という条件を考えだし、この条件で両親の説得を試みようと東京に電話した。父は意外にも息子を突き放すかのようにあっさりと認めたが、一方母は「(渡米の条件として)大学に行くって言ったでしょ。冗談じゃないわプロなんて!」と、相談を受けた当初こそ受話器を通して伝わってくるほどの怒りを露わにしたが、実は一度ホップマン・キャンプに息子を訪ねた際にブレッドから「大学に行かせないでプロにさせたらどうか」と言われていた事もあった為この事態をある程度予見しており、息子の必死の説得に最後は承諾の言葉を与えた[35]
選手経歴(1986年?)
1986年-

ブレットの言葉を受けてプロにはなったものの、父からはプロ転向に際し一切の援助は行わないと条件を付けられていたため、松岡はまず金銭の工面に苦労する事となった。


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