松山千春
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1985年、NEWSレコード事業解散。レコード会社をALFAレコードに移籍[注 2]。同年12月に結婚、一児(長女)をもうける。

1992年日本コロムビアに移籍。1980年以降のオリジナル・アルバムCDが日本コロムビアから順次廉価再発される。

2007年、コンサート公演回数が2000回に達した。
生い立ち・人物足寄町にある「千春の家」に掲げられた似顔絵

北海道夕張郡栗山町出身の父・松山明と地元出身の母・美代子(通名:ミヨ)の次男(第四子)として足寄に生まれる。姉・弟の三人兄弟。長姉は乳幼児期に早世、長兄も肺炎のため3歳で早世している。「千春」という名前は松山の生まれた年にオリンピックに向けて活躍していたスキー選手・猪谷千春にあやかって父親が名付けたもの[6]。生後間もなく股関節脱臼と診断され、札幌の北海道大学附属病院に半年間入院。この時に父・明は入院費捻出のため多額の借金を背負うことになり、その後の返済が家計を圧迫。このことが幼少期の人格形成に大きく影響を及ぼしている。その後、足寄西小学校を経て足寄中学校に入学。

フォークソングとの出会いは小学校5年生。姉の影響でピーター・ポール&マリージョーン・バエズブラザース・フォア等を知る。翌年、幼なじみの紹介で知った岡林信康が、足寄で弾き語りのコンサートを開き、聴きに行った松山に強烈なメッセージを与えたことに始まる。初めて多くの人前で歌ったのは、高校文化祭の前夜祭。仲間の強い勧めで飛び入り参加し、岡林信康の「私たちの望むものは」を熱唱した[7][8]

父・明は、1954年に足寄町でたった一人で旬刊紙『とかち新聞』を創刊し主筆を務めた人物(なお、同紙は1984年に休刊した)。しかし経営(=家計)は苦しく、特に1965年には当時の足寄町長の不正を紙面で取り上げたことで裁判沙汰となり、町長からの圧力で購読者数が大きく減少し、松山も納豆売りをして生活費を稼がねばならないところまで追い込まれた(この裁判1969年にとかち新聞側の勝訴で終わっている)[9]

足寄高校では卒業時に首席となるなど成績は優秀で、担任からは大学進学を勧められていたが、このような苦しい家計を踏まえ「早く働いて父を助けたい」との考えから大学進学を断念している[10]。高校時代はバスケットボール部に所属しており、当時は十勝地区で「シュートの鬼」の異名を取ったという。練習ではフリースローを75回連続で成功させたこともある。しかし当時の十勝地区では帯広柏葉高校が圧倒的な力を持つ強豪として立ちはだかっていたため、足寄高校はいつも地区2位で全道大会進出が叶わなかった[11]

高校卒業後は、北見市に出て、叔父が経営する小料理屋「照勝」と農協ビルの地下食堂の手伝いとクラブ「メーゾン・マヤ」(ストリップショーも兼業)のバーテンダー兼照明係を行いながら、叔父から下宿提供等の援助を受け普通自動車免許を取得。さらに合間をみて作詞・作曲を行う。その後一時足寄に戻り、父親の仕事を手伝いながら「フォーク音楽祭」に応募。生涯の“師”と仰ぐ竹田健二と出会うことになる。

高音でソウルフルな歌唱法と、コード進行の単純な楽曲は、素人でも真似が容易なため、多くの芸能人ものまねのレパートリーにしている。

好きなテレビ番組NHK総合テレビ爆笑オンエアバトル』で、「NHKの深夜にやっている球を転がすお笑い番組が好き」とある番組でコメントしている。

テレビ出演を「出るもんじゃなくって、見るものだから」という理由で拒否していたが、「あなたにはたくさん届いた番組出演のリクエストのハガキに何か答えなければならないはず」というプロデューサー・弟子丸千一郎の言葉に感銘を受け、TBS系『ザ・ベストテン』の出演を承諾。デビュー以来、テレビに初めて出演。その後、同番組には3回の出演を果たした。かつては滅多にテレビに出ないことを売りにしている側面もあったが、30歳になった1985年頃を境に、一転してバラエティや音楽番組、ニュース、ドラマ等にも頻繁に出演するようになった。また、関西テレビフジテレビ系列の『SMAP×SMAP』に出演した際、「松山が生きている限り自分以上に歌が上手い歌手は出てこない」と、自分の歌唱力に相当な自信をみせるコメントをしたこともある。

NHK紅白歌合戦』には「トリなら出る」として出場を辞退し続けている。所属事務所は紅白の出場審査の際にNHKからCDの提供を求められても「欲しいなら一般の方と同じくCDショップでお買い求め下さい」とNHKを特別扱いしない方針。一方、同じく「NHKのど自慢」にも出演していなかったが、こちらは2015年9月6日2018年8月5日の放送に出演。

地元愛が強く、「北海道を愛するフォークシンガーである」というポリシーを持つ。一般的にはスキンヘッドで毒舌キャラの恐いイメージを持たれることがあるが、気さくで素朴な性格で、特に北海道ではデビュー以来常に高い人気を誇っている。2023年に地元の野球球団である北海道日本ハムファイターズが本拠地とするエスコンフィールド北海道での試合にゲスト出演した際にも日ハムがこの時点で最下位であることを詰りながらも「新庄監督の采配で選手は強くなり、選手も新庄監督を慕っているでしょう。だからこそ来シーズンは強くなる」と毒舌と温かみを両立させた発言をした[12]

牛肉偽装問題が発覚して大きな騒動を巻き起こした際には北海道「北の食大使・牛肉大使」に任命され、牛肉のPRで全国を飛び回っていた。

スキージャンプの大ファンであり、かつて全日本ジャンプチームに大量の牛肉を差し入れていたほか、ジャンプチームの応援歌として「空?翼を広げて」を製作した。

歌手として売れるようになってからも暫く足寄の実家で生活し、現在も住所は足寄だが普段の生活拠点を札幌に移している。足寄の実家を大切に思い、ガレージには本人の似顔絵が飾られていて名物となっている。


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