松尾芭蕉
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その後湖南や京都へ行き、7月には伊賀上野へ戻った[23]

9月に奈良そして生駒暗峠を経て大坂へ赴いた[23]。大坂行きの目的は、門人の之道と珍碩の二人が不仲となり、その間を取り持つためだった。当初は若い珍碩の家に留まり諭したが、彼は受け入れず失踪してしまった。この心労が健康に障ったとも言われ、体調を崩した芭蕉は之道の家に移ったものの[24]10日夜に発熱と頭痛を訴えた。20日には回復して俳席にも現れたが、29日夜に下痢が酷くなって伏し、容態は悪化の一途を辿った。10月5日に南御堂の門前、南久太郎町6丁目の花屋仁左衛門の貸座敷に移り、門人たちの看病を受けた[23]。8日、「病中吟」と称して旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

を詠んだ[23]。この句が事実上最後の俳諧となるが、病の床で芭蕉は推敲し「なほかけ廻る夢心」や「枯野を廻るゆめ心」とすべきかと思案した[24]。10日には遺書を書いた。そして12日申の刻(午後4時頃)、芭蕉は息を引き取った[23]。享年50。

遺骸は去来、其角、正秀ら門人が舟に乗せて淀川を上り、13日の午後に近江(滋賀県)の義仲寺に運ばれた。翌14日葬儀、深夜遺言に従って木曾義仲の墓の隣に葬られた。焼香に駆けつけた門人は80名、300余名が会葬に来たという[23]。其角の「芭蕉翁終焉期」に「木曽塚の右に葬る」とあり、今も当時のままである。なお、墓石の「芭蕉翁」の字は、丈艸(じょうそう)の筆といわれる。
蕉門

門人に蕉門十哲と呼ばれる宝井其角[25]服部嵐雪[25]森川許六[26]向井去来[27]各務支考[26]内藤丈草[26]杉山杉風[25]立花北枝志太野坡[26]越智越人[28]や杉風・北枝・野坡・越人の代わりに蕉門十哲に数えられる河合曾良[28]広瀬惟然[26]服部土芳[29]天野桃隣、それ以外の弟子として万乎野沢凡兆[27]蘆野資俊などがいる。

宝井其角の流れは水間沾徳に受け継がれて江戸俳壇の中心となり、後に江戸座を結成した[30]。向井去来の没後60余年の後に蝶夢門下の井上重厚が落柿舎を再建して二代目庵主を名乗り、以来嵯峨の地に残る[31]。各務支考に始まる美濃派は支考の別号「獅子老人」に由来して獅子門を名乗り、俳句結社として現代に続く[32]。この他にも地方でも門人らがあり、尾張・近江・伊賀・加賀などではそれぞれの蕉門派が活躍した[28]。特に芭蕉が「旧里」と呼ぶほど好んだ近江からは近江蕉門が輩出した。門人36俳仙といわれるなか近江の門人は計12名にも及んでいる。
芭蕉の風
貞門・談林風

宗房の名乗りで俳諧を始めた頃、その作風は貞門派の典型であった。つまり、先人の文学作品から要素を得ながら、掛詞見立て頓知といった発想を複合的に加えて仕立てる様である。初入集された『佐夜中山集』の1句月ぞしるべこなたへ入せ旅の宿 (つきぞしるべ こなたへいらせ たびのやど)

は、謡曲鞍馬天狗』の一節から題材を得ている[15]。2年後の作品霰まじる帷子雪はこもんかな (あられまじる かたびらゆきは こもんかな)『続山井』

では、「帷子雪」(薄積もりの雪)と「帷子」(薄い着物)を掛詞とし、雪景色に降る霰の風景を、小紋(細かな模様)がある着物に見立てている[15]。また、「??は××である」という形式もひとつの特徴である[15]。江戸で桃青号を名乗る時期の作は談林調になったと言われるが、この頃の作品にも貞門的な謡曲から得た要素をユニークさで彩る特徴が見られる[15]
天和期の特徴

天和年間、俳諧の世界では漢文調や字余りが流行し、芭蕉もその影響を受けた。また、芭蕉庵について歌った句を例にあげると、字余りの上五で外の情景を、中七と下五で庵の中にいる自分の様を描いている。これは和歌における上句「五・七・五」と下句「七・七」で別々の事柄を述べながら2つが繋がり、大きな内容へと展開させる形式と同じ手段を使っている。さらに中七・下五で自らを俳諧の題材に用いている点も特徴で、貞門・談林風時代の特徴「??は××である」と違いが見られる[15]

天和期は芭蕉にとって貞門・談林風の末期とみなす評価もあるが、芭蕉にとってこの時期は表現や句の構造に様々な試みを導入し、意識して俳諧に変化を生み出そうと模索する転換期と考えられる[15]
芭蕉発句


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