宗匠となった桃青は江戸や時に京都の俳壇と交流を持ちながら、多くの作品を発表する。京の信徳が江戸に来た際に山口素堂らと会し、『桃青三百韻』が刊行された。この時期には談林派の影響が強く現れていた[11]。また批評を依頼される事もあり、『俳諧関相撲』(未達編、天和2年刊)の評価を依頼された18人の傑出した俳人のひとりに選ばれた。ただし桃青の評は散逸し伝わっていない[11]。
しかし延宝8年(1680年)、桃青は突然深川に居を移す。この理由については諸説あり、新進気鋭の宗匠として愛好家らと面会する点者生活に飽いたという意見、火事で日本橋の家を焼け出された説、また談林諧謔に限界を見たという意見もある[13]。いずれにしろ彼は、俳諧の純粋性を求め、世間に背を向けて老荘思想のように天(自然)に倣う中で安らぎを得ようとした考えがあった[14]。 深川に移ってから作られた句には、談林諧謔から離れや点者生活と別れを、静寂で孤独な生活を通して克服しようという意志が込められたものがある。また、『むさしぶり』(望月千春編、天和3年刊)に収められた侘びてすめ月侘斎が奈良茶哥 (わびてすめ つきわびさいが ならちゃうた) は、侘びへの共感が詠まれている[13]。この『むさしぶり』では、新たな号「芭蕉」が初めて使われた。これは門人の李下から芭蕉の株を贈られた事にちなみ、これが大いに茂ったので当初は杜甫の詩から採り「泊船堂」と読んでいた[14]深川の居を「芭蕉庵」へ変えた[13][15]。その入庵の翌秋、字余り調で「芭蕉」の句を詠んだ。芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉 (ばしょうのわきして たらいにあめを きくよかな) しかし天和2年(1682年)12月28日、天和の大火(いわゆる八百屋お七の火事)で庵を焼失し、甲斐谷村藩(山梨県都留市)の国家老高山繁文(通称・伝右衝門)に招かれ流寓した[13]。翌年5月には江戸に戻り、冬には芭蕉庵は再建されたが[13]、この出来事は芭蕉に、隠棲しながら棲家を持つ事の儚さを知らしめた[14]。 一方で、芭蕉が谷村に滞在したのは、天和3年の夏のしばらくの間とする説もある[16]。 その間『みなしぐり』(其角編)に収録された芭蕉句は、漢詩調や破調を用いるなど独自の吟調を拓き始めるもので、作風は「虚栗調(みなしぐりちょう)」と呼ばれる[13]。その一方で「笠」を題材とする句も目立ち、実際に自ら竹を裂いて笠を自作し「笠作りの翁」と名乗ることもあった。芭蕉は「笠」を最小の「庵」と考え、風雨から身を守るに侘び住まいの芭蕉庵も旅の笠も同じという思想を抱き、旅の中に身を置く思考の強まりがこのように現れ始めたと考えられる[14]。 深川の芭蕉庵の跡地やその周辺には、江東区芭蕉記念館、その分館の芭蕉庵史跡展望庭園、芭蕉翁像、芭蕉稲荷神社などの施設や史跡がある[17]。 貞享元年(1684年)8月、芭蕉は『野ざらし紀行』の旅に出る。東海道を西へ向かい、伊賀・大和・吉野・山城・美濃・尾張・甲斐を廻った。再び伊賀に入って越年すると、木曽・甲斐を経て江戸に戻ったのは貞享2年(1685年)4月になった。これは元々美濃国大垣の木因に招かれて出発したものだが、前年に他界した母親の墓参をするため伊賀にも向かった。この旅には、門人の千里(粕谷甚四郎)が同行した[18]。 紀行の名は、出発の際に詠まれた野ざらしを心に風のしむ身哉 に由来する。これ程悲壮とも言える覚悟で臨んだ旅だったが、後半には穏やかな心情になり、これは句に反映している。前半では漢詩文調のものが多いが、後半になると見聞きしたものを素直に述べながら、侘びの心境を反映した表現に変化する[18]。途中の名古屋で、芭蕉は尾張の俳人らと座を同じくし、詠んだ歌仙5巻と追加6句が纏められ『冬の日』として刊行された。これは「芭蕉七部集」の第一とされる[18]。この中で芭蕉は、日本や中国の架空の人物を含む古人を登場させ、その風狂さを題材にしながらも、従来の形式から脱皮した句を詠んだ[18]。これゆえ、『冬の日』は「芭蕉開眼の書」とも呼ばれる[18]。 野ざらし紀行から戻った芭蕉は、貞享3年(1686年)の春に芭蕉庵で催した蛙の発句会で有名な古池や蛙飛びこむ水の音 (ふるいけや かはづとびこむ みずのおと) 『蛙合』 を詠んだ。和歌や連歌の世界では「鳴く」ところに注意が及ぶ蛙の「飛ぶ」点に着目し、それを「動き」ではなく「静寂」を引き立てるために用いる詩情性は過去にない画期的なもので、芭蕉風(蕉風)俳諧を象徴する作品となった[19]。 貞享4年(1687年)8月14日から、芭蕉は弟子の河合曾良と宗波を伴い『鹿島詣 同年10月25日からは、伊勢へ向かう『笈の小文
江戸深川の芭蕉
蕉風の高まりと紀行