松前藩
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延宝元年(1673年)に江差に檜山を開き、檜山奉行を置いた[4]。檜山は、厚澤部川流域から上國天の川流域の森林地帯であり、ヒバをヒノキと称した地域の俗称そのままに檜山とされた。檜山奉行所は、この森林地帯を7箇所に区分し、同年2月に樹皮剥ぎや稚木伐採を禁止し、また野火を放つことを禁じる等の天然林の保護策を定めた[4]。また、アスナロ等の材木を造船や他藩との交易物として活用する一方で、伐採を出願制としたことから他藩からも山師が訪れるようになり、こうした山師による伐採の運上金は藩の財政の一端を担った。

しかし、元禄8年(1695年4月に檜山で山火事が発生し、過半数の樹木が消失したことから、かねてから他の地域で伐採を請願していた山師の飛騨屋久兵衛からの訴えが認められ、池尻別・沙流久寿里(釧路)厚岸・夕張石狩等におけるエゾマツの伐採が許可された[4]。山師により伐採されたエゾマツは、石狩川等の川を下って石狩川口から本島へ船で運ばれ、江戸大坂でその材質の高さから障子曲物へと加工され流通した。
18世紀ウイマム(アイヌの長と松前藩の謁見行事)を描いたアイヌ絵1751年

18世紀前半から、松前藩の家臣は交易権を商人に与えて運上金を得るようになり、場所請負制が広まった。18世紀後半には藩主の直営地も場所請負となった。請け負った商人は、出稼ぎの日本人と現地のアイヌを働かせて漁業に従事させた。これにより松前藩の財政と蝦夷地支配の根幹は、大商人に握られた。商人の経営によって、ニシン、鮭、昆布など北方の海産物の生産が大きく拡大し、それ以前からある皮、羽などの希少特産物を圧するようになった。

生活物資の中心となるは、対岸の弘前藩から独占的な供給を受ける取り決めが結ばれていたが、天明2年(1782年)から深刻化した天明の大飢饉の期間は輸送が途絶、大坂からの回送船による米の輸送が行われ、ますます西国側との結びつきを深めてゆく。

漁場の拡大に伴い、日本人は東蝦夷地にも入り込んだが、その地のアイヌは自立的で、藩の支配は強くなかった。この頃には蝦夷地全体で商人によるアイヌ使役がしだいに過酷になっていた。東蝦夷では寛政元年(1789年)、請負商人がアイヌ首長を毒殺したとの噂からアイヌが蜂起し、クナシリ・メナシの戦いへと至った。

18世紀半ばには、ロシア人千島列島南下してアイヌと接触し、日本との通交を求めた。松前藩はロシア人の存在を秘密にしたものの、ロシアの南下を知った幕府は、天明5年(1785年)から調査の人員をしばしば派遣し、寛政11年(1799年)に藩主・松前章広から蝦夷地の大半を取り上げた。すなわち1月16日に東蝦夷地の浦川(現在の浦河町)から知床半島までを7年間上知することを決め、8月12日には箱館から浦川までを取り上げて、これらの上知の代わりとして武蔵国埼玉郡に5千石を与え、各年に若干の金を給付することとした。
19世紀松前崇広は、江戸時代末期の大名蝦夷松前藩の12代藩主。

享和2年(1802年5月24日に7年間に及ぶ上知の期限を迎えたが、蝦夷地の返還は行われなかった。文化4年(1807年2月22日に西蝦夷地も取り上げられ、陸奥国伊達郡梁川に9千石で転封となった。なお、これ以前に前藩主であった松前道広が放蕩を咎められて永蟄居を命じられた[注釈 2]

文政4年(1821年12月7日に、幕府の政策転換により蝦夷地一円の支配を戻され、松前に復帰した。藩を挙げての幕閣重鎮に対する表裏に渡る働きかけも確認されている。これと同時に松前藩は北方警備の役割を再度担わされることにもなった。嘉永2年(1849年)に幕府の命令で松前福山城の築城に着手し、安政元年(1854年10月に完成させた。

日米和親条約によって箱館が開港されると、幕府は再度蝦夷地の直轄化を目論み、松前崇広の代の安政2年(1855年)2月22日に乙部村以北、木古内村以東の蝦夷地をふたたび召し上げられ、渡島半島南西部だけを領地とするようになった。


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