松下幸之助
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1932年を『命知元年』と定めて5月5日に第1回創業記念式を開き、ヘンリー・フォードに倣った『水道哲学』『250年計画』『適正利益・現金正価』を社員に訓示した。また、事業拡大のため土地が広い大阪府北河内郡門真村(現:門真市)に本社・工場を移転した。当時、門真市から枚方市にかけての地域は大阪市内から見て鬼門に当たるとして開発が遅れていたが、東北に細長く延びる日本地図を指して「日本列島はほとんどが鬼門だ」と述べて断行した。1935年には松下電器産業株式会社として法人化した。

第二次世界大戦中は、下命で軍需品の生産に協力する。1943年4月に松下造船株式会社を設立し、海運会社出身の井植歳男社長の下で、終戦までに56隻の250トンクラスの中型木造船を建造した。次いで同年10月には盾津飛行場そばに松下航空機株式会社を設立し、空技廠の技術指導により強化合板構造の練習用木製急降下爆撃機「明星」を終戦までに7機試作。試験飛行に漕ぎ着けたものの、1機は間もなく空中分解し、航空機に求められる絶対的な品質と信頼性に対する認識不足から[注 1] 惨憺たる失敗に終わった。

戦後ただちにGHQによって財閥解体の一環として制限会社[注 2]に指定され、幸之助・歳男以下役員の多くが戦争協力者として公職追放処分を受ける。暖簾分けの形で井植兄弟を社外に出した幸之助は、「松下は一代で築き上げたもので、買収などで大きくなった訳でもなく、財閥にも当らない」と反駁した。一方で1946年11月にはPHP研究所を設立し、倫理教育に乗り出すことで世評を高めた。内部留保を取り崩して人員整理を極力避けたことを感謝した労働組合もGHQに嘆願したため、間もなく制限会社指定を解除され、1947年に社長に復帰する[6]
社長復帰後

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続くドッジ・ライン不況でも苦境に陥ったが、今度は一転してレッドパージを兼ねた直営工場の操業時間短縮、人員大量整理、賃金抑制を断行し、危機を乗り切った。この経営手法を当時のマスコミが揶揄して物品税の滞納王などと報道された。

1948年、趣味の株式投資の影響でナショナル証券を設立したが、この分野で大成するには至らなかった。

1950年以降、長者番付で10回全国1位を記録(1955年 - 1959年、1961年 - 1963年1968年1984年)。また40年連続で全国100位以内に登場した。この時期の幸之助は「億万長者」であり、一生で約5,000億円の資産を築いたと推定される。

1951年、テレビ事業視察のため長期外遊し、翌1952年フィリップスと技術導入提携(後に松下電子工業として分社化、1997年4月松下電器に統合)。

1954年には戦前からの宿願だったレコード事業参入のため、当時の資本金相当額を投入して日本ビクターを子会社化したが、経営上の独立性を保証した[注 3]

1957年には自ら巡回しての自社製品販売要請に応じた小売店を自社系列電器店網へ組み込み、日本初の系列電器店ネットワークとなる「ナショナルショップ(現:パナソニックショップ)」を誕生させた。以後、自社製品の地道な拡販交渉を続ける幸之助の姿勢に共感した系列電器店が「ナショナルショップ」網へ次々新規参入。こうした「松下幸之助に対する小売店スタッフの強い忠誠心」がナショナルショップを(ピーク時に約2万7千店を誇る)国内最大の系列電器店ネットワークへと成長させる原動力となった[注 4]浅草寺大提灯

1960年に初の和歌山市名誉市民に選定される[7]。同年、浅草寺東京都台東区)の雷門大提灯は、100年近く仮設状態のままになっていたところ、幸之助が私財を寄進して現在の形に再建された。提灯の「雷門」の下加輪には「松下電器産業株式会社 松下幸之助」と金文字で大きく刻んだ一際目立つプレートが貼られている。
会長就任後

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1960年代初頭の松下

1961年会長に就任し、第一線を退くが、ヒット商品欠如が岩戸景気後の反動不況と相俟って赤字に転落する。

当時ソ連の副首相であったミコヤンと食事を共にした際、「自分は工場で家庭電気器具を作ることで、婦人解放をした」というと、感心したミコヤンは握手を求めたという[8]

1964年には門真市で初の名誉市民に推挙される[9]。また、家電品の廉売を巡り、当時のダイエー社長・中内?と30年にわたるダイエー・松下戦争が勃発した。社内外の引き締め目的で熱海ニューフジヤホテルを借り切り、全国の販社・代理店と直談判する機会を設けたものの、新興スーパーマーケットとの競合による売行不振、熾烈な販売ノルマや販促グッズの押し付け、欠陥テレビの修理費負担などが問題化して紛糾し、丸3日間にわたって逆に吊し上げられた(全国販売会社代理店社長懇談会、いわゆる「熱海会談」)。このため「共存共栄」と自筆した色紙を配布して沈静化を図る一方、営業本部長代行を兼務し、トップセールスとしての現場復帰を余儀なくされた。

1965年第16回NHK紅白歌合戦に審査員として出場した。

1967年7月、ダイエーなどの安売り店への出荷停止や締め付けなどに関して、公正取引委員会は松下電工を立ち入り検査し、独占禁止法第十九条に抵触する「不公正な取引方法」として排除勧告を受けた。これを拒否したため消費者から批判を浴びた。

1970年にはナショナルショップの後継者育成目的で松下電器商学院(現:松下幸之助商学院)を設立する。後に中村邦夫が立ち上げる「スーパープロショップ(現:スーパーパナソニックショップ)」の母体となった[注 5]

同年、日本万国博覧会(大阪万博)に松下電器館を出展する。「5000年後に開封する」として話題になったタイムカプセルには、全国の小中学生の手紙や当時の物品を納めて、博覧会終了後に大阪城公園に埋蔵された[注 6]。酷暑にもかかわらず、入場2時間待ちで並ぶ一般客の行列に日陰がないことに気付き、「松下館」と大書した紙製の帽子を配布するよう担当者に指示した。これが会場外でも宣伝になって、松下館はさらに人気を呼んだ。またタイムカプセルのミニチュアをカラーテレビの景品として頒布し、販売強化に繋げた。

1971年、慶應義塾大学工学部へ多額の寄付を行い、松下記念図書館が竣工された。
晩年

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