松下幸之助
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1973年、80歳を機に現役を引退し、相談役に退いた。1974年には奈良県明日香村の名誉村民となる[10][11]。1974年から1983年まで中野種一朗の後任として伊勢神宮崇敬会第3代会長を務め、後に松下正幸も第8代会長を務めた[12]1979年、私財70億円を投じて財団法人松下政経塾を設立し、政界に貢献しようとした。

1989年4月27日午前10時6分に気管支肺炎のため、守口市松下記念病院において死去。享年96(満94歳没)[1]法名は光雲院釋眞幸。死亡時遺産総額は約2450億円で、日本で最高とされている。
エピソード

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トヨタ自動車中興の祖・石田退三を師と仰ぎ、尊敬していた[13]

創業地の大阪市大開に思い入れがあり、本籍を大阪市大開から動かさなかった。

東洋工業(現マツダ)社長の松田恒次と親交があり、東洋工業が実用化に成功したロータリーエンジンを評価して、マツダ・コスモスポーツの顧客第一号となった。

スバル・360に発売前から興味を示し、顧客第一号であった[14]

コンピュータについて、1960年の暮れに米IBMと特許使用許諾契約を結んだ日本側15社のうちの一社に松下電器産業が含まれ[15]日本電子計算機にも参加する[16] など、初期参入企業の一社であったが(実機「MADIC」の研究開発製造は松下通信工業(現:パナソニック モバイルコミュニケーションズ))、1964年10月に撤退を表明した。この件について、同年の減収減益で、コンピュータの研究への資本投入に販社からの不満が渦巻いていたとする文献[17] もある。幸之助がこの時「コンピュータとは何をするものか」という問いを発し、それに対して幸之助の満足するような答えが得られなかったために撤退を決断したという話がある[18]。これを失策とみるか、英断とみるかは意見が分かれる(たとえばシャープも、コンピュータは基礎研究のみに止めている。ただしシャープの場合は、その応用ともいえる電卓への進出で一定の成功を収めた。)[注 7]

1965年に古希(70歳)を迎えた後、グループの総帥になると、ある従業員に「どうやってこのように大きな成功を収めることができたのですか」と尋ねられた。それに対して松下は「私は天からの3つの恵みを受けて生まれた。家が貧しかったこと、体が弱かったこと、小学校までしか進学出来なかったこと。」と答えている[19]

米『タイム』誌国際版の表紙を飾った2人目の日本人実業家である(1人目は戦前に登場した日本郵船各務鎌吉[20]

終生紀州弁で通した。晩年は声量が落ち、筆頭秘書が通訳を務めた。

朝型人間で、朝6時くらいにあちこちに電話をして打ち合わせをすることも多かった。社内だけではなく、社外の人にも早朝に電話をして驚かれたこともあるという。

郷里の和歌山市に、友人達から贈られた「松下幸之助君生誕の地」の石碑(同郷である湯川秀樹揮毫)と、幸之助がポケットマネーで寄付した和歌山市立松下体育館や、和歌山城西之丸庭園(紅葉渓庭園)内の茶室「紅松庵」がある。

東京ディズニーシーインディ・ジョーンズ・アドベンチャーのキューライン(queue - 並ぶ列)に展示中の、インディ博士の作業卓上の新聞には、幸之助の顔写真が載っている。これはパナソニックが同アトラクションのスポンサーであるためである。

大阪府門真市に所在するパナソニックミュージアム内に、松下幸之助の銅像「松下幸之助翁寿像」が建立されているが、この像は労働組合に理解を示していた幸之助に感謝する形で、松下電器労組が贈呈したものである。

自分に対して厳しい松下は交通渋滞が原因で会議に間に合わなかった際、社内処分として自らの給与を10%を減給した(1カ月間)。

200年かけて日本の山を2割切り崩し75000平方kmの土地を平らにした上、その土砂で四国程の面積の島を作ろうと考えていた[21]

辯天宗の信者で、本社から国道を挟んで南側にある「松下電子部品」(現社名=パナソニックエレクトロニックデバイス株式会社)の敷地内に、下天龍王社という祠(ほこら)が鎮座している。ただ、社内に自身の信仰を明確に持ち込んだ例はこれ以外にはなく、また前述のように浅草寺など他の諸宗教へも寄進を行っていることから、辨天宗だけを特別扱いしていたとは言えないとする見解もある。

晩年、雑誌の取材で「何かひとつ夢を叶えるとしたら何を望みますか?」と質問されたところ「今の全財産を渡すからもう一度二十歳に戻して欲しい。それが出来たら私はもう一度今と同じだけの財産を築いてみせる。」と答えたという。

リーダーに必要なものについて、「運が強いこと」と「愛嬌があること」をあげている[22]

文部科学省の中学校向け道徳教育教材『私たちの道徳』の「礼儀の意義を理解し適切な言動を」という学習指導要領の項目の中で人物コラムとして取り上げられた[23][24]

日本の戦後教育について、「道徳を高めると、人間性だけでなく日本の国際的な評価を高め、さらに実利実益にも結びつく」と述べており、道徳徳育を重視すべきと考え、教育におけるそれらの欠如が青少年の乱れに繋がっていると憂いていた[25]

昭和40年代の初めに、業務用の大型炊飯器の試作品が完成し、技術者たちが本社の重役会議に臨んだ。操作や水洗いも簡単になった画期的な新製品だったが、重役陣の反応はいま一つ。やがて昼になり、弁当が配られた。そこには試作品で炊いたご飯が用意された。幸之助だけが「この炊飯器のご飯、おいしいな」とおかわりをした。食が細いはずの幸之助だったが、その一言は、技術者たちにとって、たまらなくうれしいものだったという[26]

前日に市販された新製品の評判を、社の幹部に尋ねた際、「一週間ほどしたら評判がわかるでしょう」との答えだった。すると幸之助は「あかん!きのう発売されて、なんで今日わからんのや。商品について回れ」と叱責した。さらに「販売店を訪ね、売る人の立場から意見を聞いてみるのが本当や」「悠長に、一週間も市場の反応を待っていては商売にならん」と続けた[27]

幸之助が社員の一人に「幽霊は、なぜ怖いかわかるか」と聞いたことがある。社員が「足がないからです」と答えると、「そうや。足がないということは、それが何者やら実体がわからないから怖いのや。経営でも、実体が見えないと怖いで。何が起こるかわからないから」と応じた。幸之助は「見えないものを見えるようにするのが経営だ」とした。そのためには「自分でわかるまで考えよ」「現場に出よ」と勧めたという[28]

自分は失敗をしたことがないと断言をしている。


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