東部戦線_(南北戦争)
[Wikipedia|▼Menu]
初夏にワシントン近辺の北軍野戦指揮官はアービン・マクドウェル准将であり、戦闘士官としてはあまり経験が無かったが、さらに経験の無い志願兵を率いていた。志願兵はわずか90日間の徴兵であり、その期間も直ぐに切れようとしていた。マクドウェルは、「リッチモンドへ」という掛け声で、北部の政治家や新聞に即座に行動を起こすよう圧力を掛けられた。マクドウェルの作戦は35,000名の部隊で行軍し、マナサスにいる南軍のP・G・T・ボーリガード准将指揮下の20,000名の部隊を攻撃するということだった。その地域にはシェナンドー渓谷に別の南軍部隊、ジョセフ・ジョンストン将軍指揮下の12,000名がいた。こちらの方は、北軍のロバート・パターソン少将が指揮する18,000名の部隊がハーバーズ・フェリーに圧力を掛けて、南軍の2つの部隊がマクドウェルに対して協働行動を取らないように牽制していた。

7月21日、マクドウェルの北東バージニア軍はボーリガードの南部ポトマック軍に対して複雑な回り込みを行い、第一次ブルランの戦い(第一次マナサスの戦いとも呼ばれる)に突入した。北軍は緒戦の有利さを活かして南軍を後退させたが、戦いの趨勢は午後に変化した。ストーンウォール・ジャクソン大佐がそのバージニア旅団を鼓舞して北軍の強襲を堪え忍ばせた。この時のことでジャクソンは「ストーンウォール」(石の壁)という渾名を貰った。南軍のジョンストン軍から鉄道を使った援軍が折良く届いた。北軍のパターソンはジョンストンの動きを封じることに失敗した。経験の足りない北軍の兵士はじりじり後退を始め、ついには恐怖に憑かれた撤退に変わり、多くの者はワシントンD.C.までも逃げ帰った。この戦闘をお祭り気分で見ていた北部の文民や政治家達もパニックに陥った。北軍の軍隊は無事にワシントンD.C.に戻り、ボーリガード軍はあまりに疲れ、また経験も足りなかったので追撃ができなかった。第一次ブル・ランの戦いでの北軍の敗北は北部に衝撃を与え、新たな厳しい決断をしなければならないという雰囲気になり、軍人も文民もこの長引きそうで流血を伴う戦争に勝つためにはかなりの金と人を投入する必要性を認識した。

ジョージ・マクレランが新しく結成されるポトマック軍の指揮を執るために東部に呼びつけられた。ポトマック軍は東部戦線の主力部隊となった。マクレランは元鉄道会社の重役であり、訓練や管理という任務に良く適合した組織化能力を持っていた。また強い大望も持っており、11月1日までにウィンフィールド・スコットから引継ぎを受けてアメリカ陸軍総司令官に指名された。ただし、10月に行われたボールズブラフの戦いでは、マクレランがポトマック川に送った遠征隊が厄介な敗北を喫していた。
ノースカロライナ海岸 (1861年-1865年)

ノースカロライナ州は、ウィルミントンに死活に関わる海港があり、またアウターバンクスは北軍の海上封鎖を逃れるための貴重な海軍基地であったので、南軍にとって重要な地域であった。北軍のベンジャミン・バトラー少将はモンロー砦から回航して、1861年8月、ハッテラス入り江砲台の戦いで砦を捕獲した。1862年2月、アンブローズ・バーンサイド准将がやはりモンロー砦から水陸両用の遠征隊を組織し、ロアノーク島を占領した。このことはあまり知られていないが、北軍の戦略にとって重要なものであった。1862年遅くのゴールズボロ遠征隊は、海岸から内陸部に侵攻して鉄道線路や橋を破壊した。

ノースカロライナ海岸でのその後の作戦抗争は1864年遅くに始まり、ベンジャミン・バトラーとデイビッド・ポーターが共にウィルミントンの海港を守っているフィッシャー砦の占領に失敗した。1865年1月に、アルフレッド・テリーアデルバート・エイムズおよびポーターによる第二次フィッシャー砦の戦いで、ブラクストン・ブラッグ将軍を打ち負かし、2月にはウィルミントンを陥落させた。この時期に、西部戦線のウィリアム・シャーマン少将率いる部隊がカロライナの内陸部に侵攻し、1865年4月遅くにジョセフ・ジョンストン将軍指揮下の南軍の最後の野戦部隊を降伏させた。
バレー方面作戦 (1862年)詳細は「バレー方面作戦」を参照バレー方面作戦: カーンズタウンからマクドウェルまでバレー方面作戦: フロント・ロイヤルからポート・レパブリックまで

1862年春、第一次ブル・ランの戦いで得た南軍の優位は急速に衰え、西部戦線ではドネルソン砦の戦いシャイローの戦いで北軍が優位に立っていた。マクレランのポトマック軍大部隊は半島方面作戦で南東部からリッチモンドに迫っており、マクドウェル軍団は北からリッチモンドを叩く機会を窺っていた。またナサニエル・バンクス少将の部隊はシェナンドー・バレーの肥沃な農業地帯を脅かしていた。

南軍の士気を上げるために、バージニア州立軍人養成大学の一風変わった元教授ストーンウォール・ジャクソンが出てきた。ジャクソンの指揮下にはストーンウォール旅団や様々な民兵隊がいたが、攻撃的な作戦行動には十分でなかった。バンクス軍がポトマック川の北に留まっている間に、ジャクソンの騎兵指揮官ターナー・アシュビーがチェサピーク=オハイオ運河とボルチモア=オハイオ鉄道を襲撃した。

バンクスが反応して2月遅くにポトマック川を渡り、南に侵攻してアシュビーの攻撃から運河と鉄道を守ろうとした。ジャクソンはジョンストン軍の左翼を担っており、ジョンストンが3月にマナサスからカルペパーに移動したとき、ウィンチェスターにいたジャクソン軍は孤立した。3月12日、バンクスは南東へ(バレーを遡る方向へ)の侵攻を続けウィンチェスターを占領した。ジャクソンはストラスバーグまで撤退した。バンクスは、マクレランの全体的な戦略の中で、さらに南へ進撃しジャクソンをバレーから追い出そうとした。これを成し遂げれば、撤退してワシントンにより近い所を守ることになっていた。3月17日にウィンチェスターからバンクス軍が南下を始め、ほぼ同じ時期にマクレラン軍は水陸両用部隊でバージニア半島への侵攻を始めた。

ジョンストンがジャクソンに与えた命令は、かなり勢力的に劣勢なので会戦を避けること、ただし、同時にバンクスの部隊を牽制して、半島を進むマクレラン軍を支援できないようにしておくことであった。バンクスは誤った情報を元にジャクソンがバレーを出て行ったと判断し、東に動いてワシントンの近くまで行った。ジャクソンは、バンクスがまさに避けたい方向に進んだために動揺していた。

1862年3月23日第一次カーンズタウンの戦いで、北軍はジャクソンの動きを止めて反撃し、左側面を衝いて撤退させた。ジャクソンにとってはこの方面作戦で唯一の敗北だった。ジャクソンにとって戦術的な敗退であったが、南軍にとっては戦略的な勝利であった。リンカーン大統領はバンクス軍をバレーに、マクドウェルの30,000名の部隊はフレデリックスバーグに留まらせ、半島を侵攻するマクレラン軍に予定した勢力が50,000名少なくなったからであった。

ジャクソン軍は援軍が到着して17,000名になり、敵が部隊を併せて強力になるのを待つよりもバラバラになっている北軍を攻撃する決断をした。ジャクソン軍が敵に悟られないように間道を伝っているときに、5月8日マクドウェルの戦いで敵に襲われたが、激しい戦闘の後で撃退に成功した。バンクスはフレデリックスバーグにいるマクドウェルに援軍を送り、残りは8,000名となっていたので、ストラスバーグの守りやすい場所に移った。

5月21日、ジャクソンはニューマーケットから北東に軍を進めた。ジャクソン軍の行軍速度はこの方面作戦で独特の速さがあり、その歩兵隊は「ジャクソンの歩く騎兵」という渾名を貰った。ジャクソンは騎兵隊を真っ直ぐ北に向かわせて、バンクスにはストラスバーグの攻撃に向かっていると思わせようとしたが、実際の作戦はフロント・ロイヤルの小さな基地を叩き、ハーパーズ・フェリーでバンクスの通信線を素早く攻撃することだった。

5月23日フロントロイヤルの戦いで、ジャクソン軍は1,000名の北軍守備隊を急襲し占拠した。このジャクソンの勝利で、ストラスバーグのバンクス隊は急遽ウィンチェスターまでの撤退を余儀なくされた。ジャクソンは追撃を試みたが、兵士達が疲れていたので北軍の補給物資隊からの略奪に留め、行軍速度をかなり遅らせることにした。5月25日第一次ウィンチェスターの戦いで、バンクス軍は集結した南軍の攻撃を受け、徹底的に叩き潰された。バンクス隊は北へ向けて後退しポトマック川を渡った。ジャクソン軍は追撃したが不成功であった。

ワシントンでは、リンカーン大統領と陸軍長官エドウィン・スタントンが、ジャクソン軍は単に北軍をリッチモンドから遠ざけているだけであるとしても、これを叩くのが優先課題だということで一致していた。リンカーン達はマクドウェルに20,000名の部隊をフロント・ロイヤルに送るよう、またフレモントにはハリソンバーグに移動するよう命令した。両軍がストラスバーグで落ち合えれば、ジャクソン軍の唯一の撤退路が塞がれることになる予定だった。この行動の直接の影響は、マクドウェルがマクレランと協働してリッチモンドを攻撃する計画を中止することだった。

6月2日、北軍の2隊がジャクソンを追撃した。ジャクソン軍は守備的な陣形を採って、6月8日クロスキーズの戦いでフレモント軍を、翌9日のポートレパブリックの戦いでシールズ軍を打ち破ることが出来た。

北軍はバレーから撤退した。ジャクソンは半島のリー将軍の部隊に加わり、七日間の戦いを戦った(おそらくバレー方面作戦でのストレスのために、ジャクソンの行動はいつになく無気力なものであった)。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:108 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef