後漢が建てられると、東郡の称にもどされた。東郡は濮陽・燕・白馬・頓丘・東阿・東武陽・范・臨邑・博平・聊城・発干・楽平・陽平・衛国・穀城の15県を管轄した[6]。
277年(西晋の咸寧3年)、皇子司馬允が濮陽王に封じられ、濮陽国が立てられた[7]。濮陽国は濮陽・廩丘・白馬・?城の4県を管轄した[8]。
南朝宋のとき、南徐州に属する南濮陽郡があり、廩丘・楡次の2県を管轄した[9]。
北魏のとき、東郡が再び置かれた。東郡は?州に属し、滑台城に郡治が置かれ、東燕・平昌・白馬・涼城・酸棗・長垣・長楽の7県を管轄した[10]。
589年(隋の開皇9年)、杞州が置かれた。596年(開皇16年)、滑州と改称された。606年(大業2年)、?州と改称された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、?州は東郡と改称された。東郡は白馬・霊昌・衛南・濮陽・封丘・匡城・胙城・韋城・離狐の9県を管轄した[11]。
618年(武徳元年)、唐が郡制を廃止すると、東郡は滑州と改称され、東郡の呼称は姿を消した[12]。
脚注^ 『史記』秦始皇本紀
^ 『漢書』高帝紀下
^ 『漢書』高后紀
^ 班固『漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、293-294頁。
^ 班固『漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、293頁。
^ 『後漢書』郡国志三
^ 『晋書』武帝紀
^ 『晋書』地理志上
^ 『宋書』州郡志一
^ 『魏書』地形志二上
^ 『隋書』地理志中
^ 『旧唐書』地理志一
司隷校尉部
京兆尹(渭南郡)
左馮翊(河上郡)
右扶風(中地郡)
河南郡
河東郡
河内郡
弘農郡
豫州刺史部
潁川郡
汝南郡
梁国(?郡)
沛郡
?州刺史部
淮陽国(淮陽郡)
陳留郡(済川郡)
定陶国(済陰郡)
東郡
山陽郡(昌邑国)
東平国
泰山郡
城陽国
青州刺史部
斉郡
済南郡(博陽郡)
済北国
平原郡
千乗郡
?川国
高密国(膠西国)
北海郡
膠東国
東?郡