東西教会の分裂
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「相互破門」以降も、両教会にとり分裂の解消は大きな課題のひとつでありつづけた。特にイスラーム勢力によるシリア、アナトリアへの侵攻に悩まされていた歴代の東ローマ帝国皇帝は、ローマ教皇の教会における首位権を認める代償として西欧諸国からの援軍を期待する傾向が強かった。

しかし、相互の教義の違いのみならず、文化・組織・政治的状況の差異は拡大しつづけた。

特に第4回十字軍によるコンスタンディヌーポリ(1204年)の陥落と、それに伴う東ローマ帝国市民への虐殺・略奪・婦女暴行や、新たなコンスタンティノポリス総大司教座の設置を伴った教区制度の破壊と簒奪、および正教会への迫害行為は、正教会側の対カトリック感情を決定的に悪化させてしまった[7]。カトリック教会におけるコンスタンティノポリス総大司教座は近代に至るまで名目上は存続し続けた。

第4回十字軍の際のみならず、十字軍の各回において、既存のエルサレム総主教庁を無視したエルサレム総大司教座など、東地中海地域には東方典礼カトリック教会の教区が既存の正教会の教区を無視する形で設立されていた。

13世紀後半から15世紀前半のパレオロゴス朝東ローマ皇帝もそれまでの皇帝と同様、基本的に西欧からの援軍を期待してローマとの和解を模索するが、民衆・貴族修道士・教会のいずれからも猛反対が起こり、皇帝の意図は達成されることは無かった。
フィレンツェ公会議での東西教会合同不成立ローマ教皇の三重冠

15世紀のフィレンツェ公会議は、オスマン帝国の領土拡大に圧迫された東ローマ帝国の政治的危機を背景に、東ローマ皇帝の意を受けた正教会の妥協によるフィリオクェの容認にほぼ落ち着くかにみえたが、正教会側の出席者1名がこの決定に異論を唱え合意文書への署名を拒否したことにより、最終的な合意にいたらなかった。

この時の正教会側の出席者達は東ローマ皇帝の東西教会統合への意向を受けた人選だったが、にもかかわらず合意がなされなかった事は、この時点で東西教会の差異がいかに開いていたかを示すものである。まして第4回十字軍の記憶冷めやらぬコンスタンチノープル市民や、正教会の正統性についての意識をコンスタンチノープルから継承したルーシの諸教会において、東西教会再統合への反発が広範囲に起こっていたことは極めて自然だった。東ローマ帝国の大臣兼軍司令官のルカス・ノタラス大公に至っては「ローマ教皇の三重冠を見るくらいなら、スルタンターバンを見るほうがましだ」と公言していたほどだった。
16世紀以降

16世紀には、イエズス会が精力的に東方伝道を行い、正教徒のカトリック教会への改宗を進めた。

ウクライナロシア西部ではカトリック教会を奉じるポーランド王ジグムント3世の支配下に置かれた正教会が、聖俗両面から圧迫弾圧を受けた。その結果の一つがウクライナ・ロシア西部の多くの教会をローマ教皇の管轄の下に置く事となった1596年ブレスト合同であったが、ブレスト合同は反対派を議場から締め出し、ポーランド王の権力の下で強引な経緯を経て成立したものであった。これによりウクライナ東方カトリック教会が成立。こんにちに至るまでの東西教会の主要な対立原因の一つとなっている。詳細は「ブレスト合同」を参照

十字軍の時代に、東地中海地域に東方典礼カトリック教会の教区が既存の正教会の教区を無視する形で設立されたことと合わせ、東方正教会側にはカトリックが議論によってではなく、力でローマ教皇の権威の下に他者を併呑しようとしているとの危惧と不信感が醸成されていった。このことは、カトリックとの対話に懐疑的な勢力を正教会内部に育て、その影響は現在もなお広い範囲に根強く残っている。

この直後、東ローマ帝国が西方からの大規模な増援なく滅亡したことも、東方教会側の一致への動機を減じたことは否定できない(奮戦した傭兵部隊も存在し、一定の美談も生んだが)。
近現代における差異の拡大と対立

1870年第1バチカン公会議において、教皇不可謬説が正式なカトリック教会の教義として採択された。カトリックが信仰および道徳に関する事柄について教皇座(エクス・カテドラ)から厳かに宣言する場合、その決定は聖霊の導きに基づくものとなるため、正しく決して誤りえないとするものだった。

この採択内容は、高位聖職者たる総主教といえども誤りを犯す事は人間として当然に有り得るのであり、公会議の決定に総主教も従わなければならないとする正教会の伝統的な考え方とは全く相容れないものであり、これによってカトリック教会と正教会の差異はより広がった。なお教皇不可謬説はカトリック教会内部からも異論の出るものであり、復古カトリック教会が成立する結果を招来してもいる。

ポーランドの正教会では150箇所の正教会の聖堂がカトリック教会の聖堂として強制的に転用されるという事件が1920年代に起こり、ウクライナとポーランドにおける東西両教会の関係に近現代においても尚しこりを残すこととなった。
近代以降:和解への道のり
「相互破門」の解消

正教会と聖公会ロシア革命が起こるまで、「教皇首位権に否定的かつ伝統的な教会である」「ロマノフ朝ハノーヴァー朝の姻戚関係」等の要因によって、特に英国国教会とロシア正教会の主導の下で関係深化が進められていた。しかしソ連邦成立以降はこの試みは頓挫し、現在、正教会と聖公会の関係は特に深いものではなくなっている。

1964年、東方正教会とカトリック教会の間で和解に向けた一歩として、ローマ教皇パウロ6世とコンスタンディヌーポリ全地総主教アシナゴラス1世エルサレムで会談した。1965年エキュメニズムが大きなテーマとなった第2バチカン公会議においてローマカトリック教会の中で東方正教会との和解への道が再び模索され、正教会への働きかけが行われた。その結果を受けて1965年12月7日、公会議の席上まずローマ教皇パウロ6世によって「カトリック教会と正教会による共同宣言」が発表され、続いて正教会側もイスタンブール(コンスタンディヌーポリ)でこれを発表した。これによって1054年以降続いていた相互破門状態はようやく解消され、東西教会の対話がはじめられることになった。

但し先述の通り、この相互破門は破門として有効だったのか疑わしい程度のものであった[6]。また、両教会のトップによる「和解」の後も、全体的な関係改善に結び付いているとは言えない状況である[6]
東西教会両首脳が同席した聖体礼儀

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現在のコンスタンディヌーポリ総主教座聖堂である聖ゲオルギオス大聖堂の内観。奉神礼時の光景。右詠隊正教会の詠隊が左右に分かれる場合の、右側の詠隊を指す語)が歌っている。左側に至聖所イコノスタシスが写っている。

2006年11月29日、コンスタンディヌーポリ総主教の座所である聖ゲオルギオス大聖堂で、コンスタンディヌーポリ全地総主教ヴァルソロメオス1世が司祷する聖体礼儀に、ローマ教皇ベネディクト16世が陪席した。この聖体礼儀については以下が指摘される[8]

この時の聖体礼儀の司祷はコンスタンディヌーポリ総主教であり、至聖所で陪祷したのも正教会関係者のみであり、形式はビザンチン式の奉神礼であり、言語も殆どギリシャ語が使われた[8]

聖変化(エピクレーシス)前の和解の接吻に際してもベネディクト16世は至聖所に入らず(この接吻は本来は至聖所内で行われるものである)、ヴァルソロメオス1世とベネディクト16世は王門の前で和解の抱擁を行った。カトリック教会関係者は至聖所には入らなかった[8]

ローマ教皇は聖所(聖堂内に於いて信徒会衆の立つ場所)に数段高く設けられた貴賓席にカトリック教会関係者とともに座り、天主経(主の祈り)をギリシャ語(古典ギリシャ語再建ではなく現代ギリシャ語での読み)で唱えるにとどまった[8]


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