東浩紀
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^ “ ⇒ised@glocom : 情報社会の倫理と設計についての学際的研究”. www.glocom.jp. 2022年7月24日閲覧。
^ a b 「動物」とはアレクサンドル・コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』の用語からとられている。「歴史の終焉」後の人間のあり方を指す。浅田彰は、東が依拠するコジェーブの「闘争が終わる、歴史が終わる」という「予言が全く間違っていたことは、旧ユーゴスラビア紛争から二度の湾岸戦争に至る現代史の激動、冷戦と言う歴史の中吊りが解けたような歴史の激動を見れば、誰の目にも明らか」と指摘する。「「現在」を考える:こどもたちに語るモダン/ポストモダン」(岡崎乾二郎との公開トークショー)、『InterCommunication』no.58、2006年を参照。
^ a b 遅くて2006年まで。スタンフォード日本センターの機構変革による。
^ 浅田彰は、「東浩紀は『存在論的、郵便的』というシャープなデリダ論において、この時期(『グラ』1974・『葉書』など)を中期と呼び、その中期のテクストにデリダの可能性の中心を見ていますが、それには僕もおおむね賛成」と述べている。(「Re-membering Jacques Derrida」『新潮』2005年2月号「小特集=ジャック・デリダ」を参照。)東は、「意図しない妊娠・その結果生まれた子・誤配」をデリダの言う「散種」である、として見出し、ラカンの「ファルス」と対置する。ラカン「ファルス」とデリダ「散種」の「対決」、および浅田と東の「郵便」「散種」の捉え方の差異については、浅田彰ラカンアルチュセールデリダジジェクの『汝の症候を楽しめ』をきっかけに」、 ⇒「「投壜通信」について」を参照。また浅田は「誤解や誤配は「情報一般に伴う条件」だから不可避だし、それでいいのだ、と言い切ってしまうとすれば、それは安易な居直りでしかないでしょう。(デリダに即して言えば、徹底的に正確に読もうとするにもかかわらず、いやむしろそれゆえにこそ、どうしてもズレが生じてしまう、簡単に言えばそういった問題を考えているのであって、安易なコピーが氾濫しオリジナルが雲散霧消していくのが「情報一般に伴う条件」としての「散種」だ、というようなことを言っているのではありません。」とも述べている ⇒[1]
^ この帯の元の文章の全文は以下の通り。「東浩紀との出会いは新鮮な驚きだった。もちろん私の世代の「ポストモダン知識人」もサブカルチャーに興味をみせはしたが、それはまだハイカルチャーとサブカルチャーの垣根を崩すためのジェスチャーである場合が多く、サブカルチャーに本気で情熱を傾けるようなことはなかったと思う。20歳代半ばも超えて、自室にアニメのポスターを張り、アニメ監督(註:庵野秀明である)に同一化して髭までのばしたりするような人間 - ハイカルチャーが崩壊し尽した後の徹底した文化的貧困の中に生まれた正真正銘の「おたく」が、それにもかかわらず、自分では話せないフランス語のテクストと執拗に格闘し、しかも読者に本気でものを考えさせるような論文を書く。それはやはり驚きであり、その驚きとともに私は「構造と力」がとうとう完全に過去のものとなったことを認めたのである。この「おたく哲学」が「哲学おたく」とはまったく非なるものであることは、東浩紀の今後の活躍が証明していくことになるだろう。」(『批評空間』II-18編集後記1998)
^ 「僕にとってはデリダもアニメも同じサブカルチャーなんです。普通の人の意識のなかで、その二つの世界が分断されているから、意外な感じがするんでしょう。でも、論壇誌だってアニメだって僕にとっては同等」と述べる。「哲学研究者 東浩紀さん(表紙の人 坂田栄一郎のオフカメラ)」『AERA』1999.10.4を参照。また、「僕の評論は一種のエミュレーション」「デリダ論もそうだったんだけど、背景となる知識や大前提がなくても、ある題材が与えられれば、その内部で整合的に話が繋がるように読み方を捏造するというか、そういう感覚がある」と述べる。『リアルのゆくえ』p.39を参照。
^ 東の、ラカンのターム「象徴界」の用い方ー例えば現在の文化状況をさして「象徴界が機能していない」としたりするーについては、精神科医斎藤環などからの、トポロジカルな関係であり、実体化できない三界(象徴界・想像界・現実界)の区分に関する、「ラカンの誤読」であり「誤り」である、という指摘がある。『戦闘美少女の精神分析』pp.40-41を参照。もっとも斎藤は、この本の出版以降、東が主催したメールマガジン『波状言論』に、当時、東の招待で友好的に参加していた。『波状言論』でも二人は,「戦闘美少女」や「おたく」についてML上で交わした議論を公開していたhttp://www.hirokiazuma.com/project/ml-reviews/sentoindex.html(インターネットアーカイブ)。 また、斎藤は『メディアは存在しない』(NTT出版2007)1章においても、同様の指摘をし、東の情報技術メディア論を「内破主義」であるとして、かなりの疑問を呈している(本書の一貫したモチーフである)。とはいえ、この書物の末尾には東も鼎談相手として登場する。
^ 最近の「オタク」的嗜好は、以下の動画 ⇒[2]を参照。そこでは高橋留美子展に合わせ、過去在籍した「うる星やつら」ファンクラブ会員証を披露した。もっとも「僕は基本的にオタクは好きじゃない、オタクという集団は好きじゃないが、やはり秋葉原へ行くとこの人たちが僕を支えているという実感がある。彼らの代表者としての論壇のポジションがある」と述べている。宇野常寛との決断主義トークラジオ(2008. 2.9)参照 ⇒[3]。しかし同時に宇野常寛に「二次元になりたいと思ったことないだろ?俺はあるよ」とも述べる。また東自身も「ゲーム的リアリズムの誕生」で論じた「コンテンツ」より「コミュニケーション優位」、「二次製作優位」のネットメディアに身をさらしている[4]。また2008年ゼロアカインタビューでは[5]、「批評は一回ゼロ地点に戻るしかない。文学の「全体性」を回復したい。僕は日本文学史を引き受けている。僕は柄谷行人浅田彰の弟子であって、僕がやるしかない。俺が放棄したらどうなるの?正確に言うと文学でなく文学的想像力の全体性について考えたい。それは純文学でもライトノベルでもケータイ小説でもない。
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