東洲斎写楽
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^ 中野三敏は「方角分」の故人印が数次にわたって書き入れられているとしながらも、当初は写楽の項目に付せられた故人印を「方角分」成立時のものとみなし、写楽を「文政元年の時点で故人」としていた[28]。後年になり、諏訪春雄の指摘を受けて当該部分を「つけてある故人印を、もし原本にあった通りのものと認定出来れば、文政元年には故人となっている」に訂正している[29]
^ 法光寺は平成5年に越谷市三野宮へ移転したが、それまでは築地にあった(越谷市公式ホームページ「江戸幕府は西本願寺に対し八丁堀先の海辺を代地として指定し、本願寺はその地を埋め立てて御堂を建設。この御堂が現在の西本願寺築地別院の始まり」)。
^ 斎藤十郎兵衛説への批判には、石田泰弘『東洲斎写楽・斎藤十郎兵衛同人説への疑義』などがある[30]
^ 達磨屋伍一旧蔵本、奈河本助(二代金沢竜玉)旧蔵本。達磨屋伍一旧蔵本は奈河本助旧蔵本を書き写したものだと考証されている。奈河本助は天保13年(1842年)に死去しているため、奈河本助の手による書き込みなら、斎藤月岑の増補以前の加筆ということになる[31]
^ 第3期間版役者絵11枚を除く。
^ 日本国内の書籍などではしばしば美術評論家・心理学者として紹介されるが、ドイツ語版Wikipedia記事での肩書はPfarrer(牧師)・Privatgelehrter(民間の研究家)・Autor(著述家)である。ベルリン大学でプロテスタント神学を学び、1886年ハイデルベルク大学哲学部博士。日本・中国の木版画に関する著作を多数手がけた他、エジプト、近東の古美術のコレクターで、クルトのコレクションは死後にマルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルクの考古学博物館に収蔵された。
^ ただし、『Sharaku』刊行以前の日本国内でも、明治36年(1903年)に酒井好古堂から『写楽名画揃』が刊行されている。
^ 明治34年(1901年)2月15日『読売新聞』に飯島虚心の記事「写楽の雲母絵」があり、当時、写楽の贋作が盛んに作られていたことを記している。
^ ユリウス・クルトは『SHARAKU』が初めての浮世絵関係の著作だったわけではなく、『Utamaro』(明治40年(1907年))[40]、『Harunobu』(明治43年(1910年))をすでに刊行していた。
^ 近年の例では、平成23年(2011)5月開催の特別展『写楽』(東京国立博物館東京新聞NHKNHKプロモーション主催)の図録に「ドイツの美術評論家ユリウス・クルトは、すでに100年前、写楽をベラスケスやレンブラントとならぶ世界三大肖像画家として評価しています」[43]との記述があり、国内外で同展覧会の広報に使用されたが、その典拠の提示はない。
^ 『写楽 SHARAKU』以前の日本語訳としては中川四明(四明老人)による抄訳「寫樂の雲母繪」(『京都美術』芸艸堂、1917年27号?29号)、『浮世絵芸術』誌に掲載された井上和雄(雨石)の研究ノート[44]があるが、「世界三大肖像画家」「レンブラント」「ベラスケス」に関する言及はない。
^ 『写楽 SHARAKU』刊行後の平成7年(1995)10月開催の『大写楽展』(東武美術館(2001年廃館)・NHK・NHKプロモーション主催)の図録に「今世紀になってドイツ人ユリウス・クルトによって、いわば再発見され、ベラスケス、レンブラントと並ぶ世界の三大肖像画家という評価も獲得しました」との記述があり、広報に使用されたが、その典拠の提示はない。
^ 2020年9月刊行の『浮世絵の解剖図鑑』に「後の世、海外の評論家からベラスケス、レンブラントと並ぶ「世界の三大肖像画家」と言われるようになります」[46]との記述があるが、同書は提唱者の名前を挙げておらず、また出典の提示はない 。
^ 菅原真弓は、ベラスケスやレンブラントに並ぶ三大肖像画家の一人という賞賛がクルトの『SHARAKU』に記されていないことを指摘した上で、クルトの写楽論と日本の写楽研究の≪ズレ≫についての興味深い論考として岸文和論文を紹介している[48]
^ 仲田勝之助論文「東洲斎写楽」(『美術画報』画報社、大正9年6月号)には「欧州の浮世絵愛好家に見出され、一躍レムブランドやベラスケスにさへ比肩すべき世界的肖像画家として認識」されるに至ったとあるだけで、出典は挙げていない。
^ ユリウス・クルトの写楽研究を最初に日本に紹介したとされるのは1914年発表の永井荷風の論文「浮世絵と江戸演劇」[51]だが、これには「世界三大肖像画家」「レンブラント」「ベラスケス」に関する言及はない。野口米次郎は『写楽』(第一書房、1926年)並びに『美の饗宴―六大浮世絵師論』(早川書店、1948年)を著し、両書で詳細にクルトの論を紹介しているが、「世界三大肖像画家」以下の言及はない。鈴木重三著『写楽』(講談社、1966年)では、フェノロサ、クルトをはじめ、外国人研究者たちの写楽評を詳しく紹介しているが、「世界三大肖像画家」以下の言及はない。
^ 近藤市太郎編『写楽』(大日本雄弁会講談社、1955年)は仲田の『写楽』を参考文献に上げ、「ミュンヘンの一書肆から1910年に出版された『SHARAKU』によって、彼はレンブラントやベラスケスにも比肩すべき世界的肖像画家の栄誉を与えられたのである」と紹介している。同書はポール・ブルームの訳により“Kodansha Library of Japanese Art Series”中の一冊『Toshusai Sharaku』(C.E. Tuttle社(英語版) , 1955年)として英訳版が刊行されている。
^ ただし、瀬木慎一自身も『江戸美術の再発見』(毎日新聞社、1977年)p179などで「写楽をベラスケス、レンブラントと並ぶ世界の三大肖像画家とする説がドイツ人クルトによって唱えられ」たといった趣旨の説明を行っている。
^ 高橋を会長として発足した日本浮世絵協会編『浮世絵名作選集 写楽 』(山田書院、1968年)のはしがき(文責者なし)には「世界中の人々から、レンブラントやベラスケスと並んだ世界の三大肖像画家として絶賛され、仰がれている」とあるが、『SHARAKU』の中にそうした文章があるとは書いていない。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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