東洲斎写楽
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^ ただし、寛政六年当時は戯作・浮世絵等の市販には事前の検閲が必要であり、制度上、作者の身元がしれない出版物は許可されなかった。寛政二年五月の町触れには「一 都て作者不知書物類有之は、商売致間敷候」の一条が見える[12]
^ 狩野寿信編『本朝画家人名辞書(下)』(大倉書店,1893年)「歌舞妓堂」並びに「写楽」の項[13]で、両者を同一人物として見做している。『SHARAKU』を著したクルトは林忠正[14]、バルブートーの先行研究を踏まえ、写楽が歌舞妓堂艶鏡に改名したと考えていた[15]
^ 田中は『浮世絵類考』の一部の写本に、写楽と北斎を同一人物と読めることを論拠に上げている[16]。しかし、これは伝写の過程で北斎の記述が紛れ込んだものだと考えられる[17]。また、田中は写楽と北斎の武者絵における脛の描き方の類似も根拠として挙げている。しかし、北斎の師で、写楽が作画の参考にしたと推定される勝川春章、及びその弟子たちの脛の描き方も類似している[18]
^ 同じ時期に八丁堀地蔵橋に住んでいた人物に、国学者村田春海南町奉行所与力儒者中田粲堂、斎藤月岑が絵を学んだ文人画家谷口月窓がいる。
^ 国立国会図書館所蔵本の記号の書入れについては諏訪春雄が筆跡による考証を試み、記号の書入れには四種類あって、写楽斎の故人の記号は後人による書入れだと判断を下している[27]。『諸家人名江戸方角分』の写楽斎記事の存在を最初に報告した中野三敏も、文政元年以後の物故者の記事にも故人の記号が複数あることや、本文とは別筆による書入れが存在することは認識していた(中野三敏 1976)。
^ 中野三敏は「方角分」の故人印が数次にわたって書き入れられているとしながらも、当初は写楽の項目に付せられた故人印を「方角分」成立時のものとみなし、写楽を「文政元年の時点で故人」としていた[28]。後年になり、諏訪春雄の指摘を受けて当該部分を「つけてある故人印を、もし原本にあった通りのものと認定出来れば、文政元年には故人となっている」に訂正している[29]
^ 法光寺は平成5年に越谷市三野宮へ移転したが、それまでは築地にあった(越谷市公式ホームページ「江戸幕府は西本願寺に対し八丁堀先の海辺を代地として指定し、本願寺はその地を埋め立てて御堂を建設。この御堂が現在の西本願寺築地別院の始まり」)。
^ 斎藤十郎兵衛説への批判には、石田泰弘『東洲斎写楽・斎藤十郎兵衛同人説への疑義』などがある[30]
^ 達磨屋伍一旧蔵本、奈河本助(二代金沢竜玉)旧蔵本。達磨屋伍一旧蔵本は奈河本助旧蔵本を書き写したものだと考証されている。奈河本助は天保13年(1842年)に死去しているため、奈河本助の手による書き込みなら、斎藤月岑の増補以前の加筆ということになる[31]
^ 第3期間版役者絵11枚を除く。
^ 日本国内の書籍などではしばしば美術評論家・心理学者として紹介されるが、ドイツ語版Wikipedia記事での肩書はPfarrer(牧師)・Privatgelehrter(民間の研究家)・Autor(著述家)である。ベルリン大学でプロテスタント神学を学び、1886年ハイデルベルク大学哲学部博士。日本・中国の木版画に関する著作を多数手がけた他、エジプト、近東の古美術のコレクターで、クルトのコレクションは死後にマルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルクの考古学博物館に収蔵された。
^ ただし、『Sharaku』刊行以前の日本国内でも、明治36年(1903年)に酒井好古堂から『写楽名画揃』が刊行されている。
^ 明治34年(1901年)2月15日『読売新聞』に飯島虚心の記事「写楽の雲母絵」があり、当時、写楽の贋作が盛んに作られていたことを記している。
^ ユリウス・クルトは『SHARAKU』が初めての浮世絵関係の著作だったわけではなく、『Utamaro』(明治40年(1907年))[40]、『Harunobu』(明治43年(1910年))をすでに刊行していた。
^ 近年の例では、平成23年(2011)5月開催の特別展『写楽』(東京国立博物館東京新聞NHKNHKプロモーション主催)の図録に「ドイツの美術評論家ユリウス・クルトは、すでに100年前、写楽をベラスケスやレンブラントとならぶ世界三大肖像画家として評価しています」[43]との記述があり、国内外で同展覧会の広報に使用されたが、その典拠の提示はない。
^ 『写楽 SHARAKU』以前の日本語訳としては中川四明(四明老人)による抄訳「寫樂の雲母繪」(『京都美術』芸艸堂、1917年27号?29号)、『浮世絵芸術』誌に掲載された井上和雄(雨石)の研究ノート[44]があるが、「世界三大肖像画家」「レンブラント」「ベラスケス」に関する言及はない。
^ 『写楽 SHARAKU』刊行後の平成7年(1995)10月開催の『大写楽展』(東武美術館(2001年廃館)・NHK・NHKプロモーション主催)の図録に「今世紀になってドイツ人ユリウス・クルトによって、いわば再発見され、ベラスケス、レンブラントと並ぶ世界の三大肖像画家という評価も獲得しました」との記述があり、広報に使用されたが、その典拠の提示はない。
^ 2020年9月刊行の『浮世絵の解剖図鑑』に「後の世、海外の評論家からベラスケス、レンブラントと並ぶ「世界の三大肖像画家」と言われるようになります」[46]との記述があるが、同書は提唱者の名前を挙げておらず、また出典の提示はない 。
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