東洋大学
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サステイナビリティ学連携研究機構において共生哲学分野の研究を担うなど、哲学研究においては日本有数の実績を持っている。
学風および特色

入試ガイドにアニメキャラクターであるムーミンを使用する、日本の大学が主催して行う児童・生徒・学生を対象とした各種イベントの先駆けとなった現代学生百人一首を開催する、毎年新入生に同内容のアンケートを行って継続発表をした。
沿革

大学令による旧制大学昇格が遅れた理由については境野事件も参照。2012年まで使用された旧ロゴ
略歴

1887年井上円了が哲学館を創設。その後、専門学校令に基づき哲学館大学となり、井上引退後の1906年に東洋大学と改称した。1918年に大学令が公布されると東洋大学もいち早く昇格運動に取り組んだものの、資金不足と学校騒動により大学昇格は大幅に遅れた。第二次世界大戦後は仏教団体や経済界からの支援を受けて拡張を続け、現在は4キャンパスに14学部18研究科を設置している。
年表創立者井上円了哲学館事件を報じる『東京朝日新聞』(1903年1月30日付2面)専門学校令による東洋大学および京北中学校高嶋米峰の丙午出版社(1906年-08年頃)昭和初期の東洋大学および京北中学校、京北実業学校東洋大学本館(のちの3号館)東洋大学講堂(のちの6号館)

1887年 - 東京市本郷区龍岡町麟祥院に哲学館創設[12](館主井上円了[13]

1888年 - 館外生制度を設け、『哲学館講義録』を発行[14](文科系講義録としては全国初)[注 6]

1889年 - 新校舎が本郷区駒込蓬莱町に落成(郁文館と校舎を共用)[15]

1894年 - 『東洋哲学』創刊[16]校友会を結成[17]

1896年 - 小松宮彰仁親王から「護国愛理」の扁額を下賜される[2]。火災により駒込蓬莱町校舎焼失[18]

1897年 - 1月に漢学専修科、4月に仏教専修科を開講[19]小石川区原町に新校舎落成[20](現在の白山キャンパス)。

1899年 - 中等教員無試験検定の取扱が許可される[21]

1902年 - 哲学館事件発生、中等教員無試験検定認可取消[22]

1903年 - 私立哲学館大学へ改称し、専門学校令による専門学校として設置認可[23]

1904年 - 大学部(5年制)と専門部(3年制)を開設、大学部に第一科(哲学および宗教)と第二科(国語および漢文)を設置[24]

1906年 - 井上円了学長退任。学校組織を財団法人に改め、私立東洋大学と改称[25]

1907年 - 校友・講師らの働きかけにより中等教員無試験検定の取扱再認可[26]、留学生が初めて入学[27]

1916年 - 女子の入学許可[28](男子の専門学校として日本初)。

1919年 - 『東洋大学基本金募集趣意書』を発表、大学昇格運動開始[29]。井上円了が死去。

1920年 - 私立東洋大学の「私立」の冠称を廃止[30]

1921年 - 大学部第一科・第二科を廃し印度哲学倫理学科と支那哲学東洋文学科を設置、専門部第一科・第二科を廃し倫理学教育学科、倫理学東洋文学科、文化学科、社会事業科とする[31]

1923年 - 境野事件発生[32]、大学昇格運動中断[33]

1924年 - 校歌を制定(林古渓作詞、山田耕作作曲)[34]。女子が本科生となることを禁じ、聴講生のみを認める方針をとる[35]

1927年 - 大学設立認可申請書を提出(1月19日)[36]。東洋大学創立40周年記念式典で中島徳蔵学長が東洋大学の建学精神は「護国愛理」であるとの見解を表明[37]

1928年 - 大学設立認可申請書を再提出(1月20日)[38]大学令による東洋大学が認可(3月30日)[38]。新校舎竣工[39](旧3号館)。専門部社会事業科を専門部社会教育社会事業科へ改称[40]

1929年 - 大学令による文学部(哲学科・仏教学科・国文学科・支那哲学支那文学科)を開講[41]図書館竣工[42]

1930年 - 専門部文化学科を廃止[43]

1931年 - 仏教学者、高楠順次郎が学長に就任、専門学校令による大学部を廃止[43]


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