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出典検索?: "東欧革命"
1986年4月にソ連で起きたチェルノブイリ原子力発電所事故によりソ連国内が急激に衰退したことが東欧革命の起きた一つの主要理由とされる[1]。1980年代のバルト海領域によるモスクワや自治権の要望の強まり、1988年になるとクレムリンはソ連国内といくつかの地域でコントロールを失った。
東欧革命の予兆は、1978年にポーランド出身のヨハネ・パウロ2世がローマ教皇に就任したことに始まる。共産主義政権側の人々でさえも尊敬するヨハネ・パウロ2世の存在は、それまで政府と反体制運動との間の力ずくの闘争であったポーランドの民主化運動の大転換を促すものであった。この大転換は1979年6月に祖国ポーランドを訪問した教皇がワルシャワで行った演説の中での「みなさん(共産主義体制を)恐れてはいけません。」との言葉により、まず大衆の確信により始まった。
ポーランドではポーランド統一労働者党による一党独裁支配が続いていたが、1956年のポズナン暴動によりヴワディスワフ・ゴムウカ政権も一定の自由化を許容せざるを得なくなり、スターリン主義からの脱却、農業集団化の廃止、カトリック教会への迫害停止などが行われ、表面上は民衆に擦り寄る政治が行われた。
しかし1970年代に入ると改革路線は行き詰まり、経済も停滞するようになった。このような中、70年代後半にポーランド国内で民主化を希求するユダヤ系活動家は反共団体「Workers' Defence Committee」を設立し、1980年にグダニスク造船所における労働者たちの自発的なデモをきっかけに、独立自主管理労働組合「連帯」が結成されると、民主化運動は大衆の衝動に引っ張られる形で、一時的に急進化・暴徒化した。この「革命」運動を抑えるためヴォイチェフ・ヤルゼルスキ書記長により戒厳令が敷かれた。
また、ヨハネ・パウロ2世は1981年と1982年の二度にわたり暗殺未遂の被害にあっている。1982年の暗殺未遂事件は教皇が行っていた歴史的規模の教会改革に反発した守旧派のスペイン人神父による犯行であったが、1981年の事件では犯人メフメト・アリ・アジャはトルコ人であったものの、教皇をソ連にとって最大の脅威となる人物として危険視していたソ連のKGBおよびKGBと結託したブルガリア政府の関与が明らかとなっている。トルコ人の犯人は共産主義者たちの口車に乗せられていたようで、後に獄中でヨハネ・パウロ2世と面会したとき、教皇に深く謝罪したとされ、教皇も彼を快く許している(2005年に教皇が亡くなったとき、アジャは深い悲しみに暮れ、長く喪に服したという)。
このときから、穏健派の中心メンバーおよび若手メンバーにより、ポーランドの民主化の実践面も精緻な理論化が行われた。メタ思想としてまず「市民」および「穏健主義」に関する理論は既に1971年の時点でオックスフォード大学のポーランド人哲学者レシェク・コワコフスキによる『スターリンの国家群:希望と絶望に関する見解』などといった研究により完成されていたので、問題は実践面の理論および計画であった。次なる課題は市民の形成および穏健主義の「定着」という実践であった。カリフォルニア大学バークレー校のポーランド人文学者で後にノーベル文学賞を受賞したチェスワフ・ミウォシュによりコワコフスキの哲学は一般の言葉に乗せて、ポーランド国内外のポーランド人に向けて正しく翻訳された。1983年にはコワコフスキとミウォシュがともに日本を訪問、長野県軽井沢町と長野市で国際シンポジウムに出席し、自分たちの理論すなわち「市民」と「穏健主義」の体系を日本人に紹介した。穏健派グループは熱心に組合員たちを説得した。
単なる労働運動でなく民主化運動と化した「連帯」においてはレフ・ヴァウェンサ(ワレサ)議長の指導のもと組織の内部が改革され、組合の下部組織だけでなく指導層でも穏健派により急進派が説得される形で急進路線が放棄されて、「連帯」の穏健路線が確定した。