東根市
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出典1:Japan Meteorological Agency
出典2:気象庁[3]

歴史

奥羽山脈から流れ出た川が作り出した沖積平野には遺跡が多く残されており、縄文時代前期頃から人々が集住し始めたものの[4]弥生時代の遺構は見つかっておらず寒冷化によって続縄文文化が南下したとみられる[5]古墳時代には稲作がはじめられ、天童市成生から当市郡山にかけては条里制の地割が見られるとともに古墳も出現する(大塚古墳)。和銅5年(712年出羽国が成立すると最上郡に属し、平安時代最上郡が村山郡と分かれると村山郡に属した。駅制が地方にも波及すると、最上川舟運を利用した駅制の一部に組み込まれ、延喜式に記述がある「村山駅」及び村山郡衙は市内郡山にあったと推定されている[6]。また、11世紀半ばに摂関家領荘園として小田島荘が成立したとされ、初見は寛治6年(1095年)の関白藤原師通の日記においてである。

鎌倉時代に入ると地頭として横山党中条氏が治めた。中条氏は鎌倉にあり陸奥国刈田郡和賀郡とともに兼帯したというが、後に分割相続し小田島氏を名乗る[7]南北朝時代に入ると南朝結城氏の支配下に入ったことが北畠親房の書状から推測される[8]が、結城氏が後に北朝に転じても足利尊氏により領有が認められた[9]。しかし正平11年(1356年)、結城氏の代官として小田島荘を治めた平長義(小田島長義)が北朝方結城氏勢力を駆逐し小田島氏本来の旧領を回復したことが、普光寺に納められた洪鍾の銘や、若宮八幡社の鰐口から暗示されている[10]。ところが、同年南朝側は奥州管領斯波家兼の次子斯波兼頼を出羽国最上郡に下向させると勢力図は一変、同じく南朝の寒河江氏などと共闘したとみられるが小田島氏は最上川西岸へ駆逐されてしまう。

その後室町時代には天童氏の庶子が入り東根氏を名乗った。戦国時代には、血統的には宗家に当たる最上氏と比肩する勢力を築いた天童氏の一翼として、長瀞氏・六田氏などと名乗り天童八楯を形成する。しかし、最上義光の策により八楯が崩壊し天童氏が滅亡すると最上義光に仕えた。東根城主東根景佐は12,000石を領した[11]

江戸時代に入ると最上氏が改易となり、程なく幕領となって東根代官陣屋が置かれた。享保年間には田畑の質流れ禁止令をめぐり長瀞騒動がおきている。その後寛政10年(1798年米津氏長瀞藩として入り長瀞陣屋が置かれた。大手門が現存移築されている。

1889年明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い北村山郡東根村・六田村・神町村・板垣新田・中島新田・大林新田の区域をもって東根村が成立。

1896年(明治29年)6月15日 - 町制施行して東根町となる。

1954年昭和29年)8月1日 - 東根町・大富村小田島村高崎村東郷村長瀞村新設合併し、改めて東根町となる。

1956年(昭和31年)11月1日 - 天童町(現・天童市)と境界変更。

1957年(昭和32年)11月1日 - 大字猪野沢・東根・六田・沼沢・長瀞の各一部を村山市へ編入。

1958年(昭和33年)11月3日 - 市制施行して東根市となる。

1966年(昭和41年)4月1日 - 大字長瀞の一部を村山市へ、村山市大字大久保の一部を東根市へ編入。

1967年(昭和42年)4月1日 - 一部を天童市へ編入。

1969年(昭和44年)5月1日 - 大字松沢・長瀞・島大堀の各一部を河北町へ、河北町大字谷地の一部を東根市へ編入。

1971年(昭和46年)5月1日 - 河北町と境界変更。

1980年(昭和55年)9月1日 - 大字東根・六田・長瀞の各一部を村山市へ、村山市大字楯岡・河島の各一部を東根市へ編入。

1989年平成元年)8月 - 中央地区に新市庁舎落成。

2001年平成13年)10月17日 - 国際環境規格ISO14001の認証を山形県内の市町村で初めて取得。

2001年(平成13年)11月6日 - 天童市の飛地(大字乱川字西原)を編入。

2008年(平成20年)5月30日 - レジ袋有料化を実施。実施は山形県内初で、東北では仙台市に次いで2番目。

市名の由来

大昔、村山盆地の真ん中に「藻が湖(もがうみ)」という大きな湖があり、この湖の東に連なる奥羽山脈の麓に最も早く拓けたところを東根と呼び、この地名が付けられたといわれている。


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