東条英機
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生い立ちと経歴

1884年(明治17年)12月30日[注釈 1]東京府麹町区(現在の東京都千代田区)で生まれた。父は陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)東條英教、母は小倉出身の徳永千歳。英機は三男であったが、長男と次男はすでに他界しており、実質「家督を継ぐ長男」として扱われた。

東條氏(安房東條氏)は安房長狭郡東條郷土豪[5]江戸時代宝生流ワキ方能楽師として、北上して盛岡藩に仕えた家系である(知行は160石[6])。英機の父英教は陸軍教導団の出身で、下士官から将校に累進して、さらに陸大の一期生を首席で卒業したが(同期に秋山好古など)、陸軍中将で予備役となった。俊才と目されながらも出世が遅れ、大将になれなかったことを、本人は長州に睨まれたことが原因と終生考えていたという。
陸軍歩兵将校となる青年期の東條

番町小学校四谷小学校学習院初等科(1回落第)、青山小学校城北尋常中學校(現:戸山高等学校)[2]東京陸軍地方幼年学校(3期生)、陸軍中央幼年学校を経て陸軍士官学校に入校。

1905年(明治38年)3月に陸軍士官学校を卒業(17期生)し、同年4月21日に任陸軍歩兵少尉、補近衛歩兵第3連隊附。1907年(明治40年)12月21日には陸軍歩兵中尉に昇進する。

1909年(明治42年)、伊藤かつ子と結婚。

1910年(明治43年)、1911年(明治44年)と陸軍大学校(陸大)に挑戦して失敗。東條のために小畑敏四郎の家の二階で勉強会が開かれ、永田鉄山岡村寧次が集まった[7]。同年に長男の英隆が誕生。

1912年大正元年)に陸大に入学。

1913年(大正2年)に父の英教が死去。

1914年(大正3年)には二男の輝雄が誕生。

1915年(大正4年)に陸大を卒業。成績は11番目だった。主席は今村均、優等に本間雅晴河辺正三鷲津チ平らがいる。陸軍歩兵大尉に昇進し、近衛歩兵第3連隊中隊長に就く。その後、陸軍省高級副官和田亀治歩兵大佐の引きで、陸軍兵器本廠附兼陸軍省副官となる。陸軍の諸法規などを記した厚冊『陸軍成規類聚』をすべて暗記したという有名なエピソードはこのころの話である。「努力即権威」が座右の銘だった東條らしい逸話である。

1918年(大正7年)には長女が誕生、翌・1919年(大正8年)8月、駐在武官としてスイスに単身赴任。

1920年(大正9年)8月10日に陸軍歩兵少佐に昇任、1921年(大正10年)7月にはドイツに駐在[注釈 3]。同年10月27日に南ドイツの保養地バーデン=バーデンで永田・小畑・岡村が結んだ密約(バーデン=バーデンの密約)に参加。これ以前から永田や小畑らとは勉強会を通して親密になっていたという[9]

1922年(大正11年)11月28日には陸軍大学校の教官に就任。1923年(大正12年)10月5日には参謀本部員、同23日には陸軍歩兵学校研究部員となる(いずれも陸大教官との兼任)。同年に二女・満喜枝が誕生している。1924年(大正13年)に陸軍歩兵中佐に昇進。1925年(大正14年)に三男・敏夫が誕生。1926年(大正15年)には陸軍大学校の兵学教官に就任。1928年昭和3年)3月8日には陸軍省整備局動員課長に就任、同年8月10日に陸軍歩兵大佐に昇進。

張作霖爆殺事件1928年6月4日)の3か月前(3月1日)の木曜会の会合で、対露戦争を準備するべき旨を述べ、その目標として「満蒙ニ完全ナル政治的勢力ヲ確立スル事」を述べており、これに従って木曜会の結論も米国参加に備えながら「満蒙ニ完全ナル政治的勢力ヲ確立スル」としている[10]。陸軍少壮グループによって形成されていた木曜会は24期の石原莞爾鈴木貞一根本博や東條のボスであった永田鉄山岡村寧次などが揃い、すでに世界恐慌の前に満蒙領有の方針が出されていたのであり、後に二葉会と合流し、武藤章田中新一らも加わり一夕会が結成されている[11]
歩兵第1連隊長を経て将官へ

1929年(昭和4年)8月1日には歩兵第1連隊長に就任。同年には三女が誕生。歩兵第1連隊長に補された東條は、連隊の将校全員の身上調書を取り寄せ、容貌・経歴・家庭環境などを暗記し、それから着任した[12]陸大を受験する隊附の少尉・中尉には、隊務の負担を減らして受験勉強を助ける配慮をした[12]

帝国陸軍において、陸軍大佐たる連隊長と兵卒の地位は隔絶しており、平時に兵卒が連隊長と話をすること、兵卒が連隊長を近くで見ることなどはありえず、儀式の時に100メートル以上離れて連隊長の姿を見るのがせいぜいであった[13]内務班で新兵に対する陰惨な私的制裁が連日連夜にわたって加えられていたのは周知の事実であるが、それを太平洋戦争敗北に至るまで全く知らなかった高級将校が実在したほど、連隊長が部隊の実情を知らず、兵卒に対して無関心であることが当たり前であった[13]

そのような風潮の中で、東條は部隊の実情を知るための具体的な行動を執り、兵卒を思いやる異色の連隊長であった。東條は、各中隊長に、兵卒として連隊に入営が予定されている者の家庭を事前に訪問して、家庭環境を把握するよう指示した[12]。連隊長たる東條が自ら内務班に入って兵卒一人一人から話を聞き、兵卒の食事に対しても気を配った[12]。こうした部下思いの東條は「人情連隊長」と呼ばれて好評であった[12]

1931年(昭和6年)8月1日には参謀本部総務部第1課長(参謀本部総務部編成動員課長[2])に就任し[14]、翌年四女が誕生している。

この間、永田や小畑も帰国し、1927年(昭和2年)には二葉会を結成し、1929年(昭和4年)5月には二葉会と木曜会を統合した一夕会を結成している。東條は板垣征四郎石原莞爾らと共に会の中心人物となり、同志と共に陸軍の人事刷新と満蒙問題解決に向けての計画を練ったという[9]。編成課長時代の国策研究会議(五課長会議)において満州問題解決方策大綱が完成している[15]

1933年(昭和8年)3月18日に陸軍少将に昇進、同年8月1日に兵器本廠附軍事調査委員長、11月22日に陸軍省軍事調査部長に就く。1934年(昭和9年)8月1日には歩兵第24旅団長(久留米)に就任。
関東軍時代


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