1963年(昭和38年)『人生劇場 飛車角』のヒットからは時代劇に代わり[20][71][72]、明治期から昭和初期を舞台に置き換え、勧善懲悪の世界を描いた時代劇の変種でもある仁侠映画を東西両撮影所で量産し[17][19][20][61][73][74][75]、鶴田浩二・高倉健・藤純子、若山富三郎らを主演に立て隆盛を迎え、1960年代は映画興行では他社を圧倒した[18][19][26][72][76][77][78]。
1964年(昭和39年)、直営ボウリングセンター第1号「横浜東映ボウリングセンター」オープン[52]。1966年(昭和41年)、日本教育テレビ持株の半数を朝日新聞社へ譲渡し、成績不振と黒い霧事件の余波で観客数が伸び悩んでいた東映フライヤーズを東急と共に1972年(昭和47年)オフに日拓ホームに売却[23][79][80]。また1960年代後半の多角経営を支えたボウリング事業は1976年2月に完全撤退した[23][25][80][81]。その一方で、1971年二代目社長に就任した岡田茂は、映画会社で初めて事業部制を敷き[82]、定款を変更して[83]、「泥棒と詐欺以外は何でもやれ」と社員に命じ[23]、不動産[23][24][注 5]、ビデオ事業(東映ビデオ)の拡張[23]、出版事業(『テレビランド』等)[84]、パチンコ屋(東盛商事)[23][83]、ゴルフ場経営[23]、シティホテル建設[23]、サラ金[85]、葬儀屋[86]、仮面ライダーのキャラクターグッズ販売[87]、アニメショップ(アニメポリス・ペロ)[88]などをやらせて事業の再構築を図った[23][24][81][85][89]。