1970年7月で直営館を含めた東映作品しか上映しない専門館が全国で250?260館、東映がイニシアチブを執る割番専門館を合わせると340?350館[95]。当時の地方の映画館の中には、東映と松竹の映画を一緒に上映したり、劇場主が勝手にプログラムを決めるような小屋があり[95]、これを実態のつかみにくいフラット館と呼ぶが[95]、この小屋も東映作品を掛けるため、当時東映のフィルムを掛ける映画館は全国で1100?1200館あった[95]。第二東映は失敗したが、そのとき増えた専門館のシステムは残った[95]。
1973年の『仁義なき戦いシリーズ』でヤクザ映画を実録ものに切り替える[17][23][25][43][68][73][96][97]。1973年から1975年の三年間は実録映画が会社総製作本数のほぼ30%を占めたが[18]、1976年からは大幅に減少した[18]。格闘映画では千葉真一と志穂美悦子の作品がブレイクし、千葉の格闘映画は海外でも大ヒットした[17][98][99][100][101]。プログラムピクチャーとしてのヤクザ映画路線は1977年に終了した[102][103]。正統的教養主義と闘うカウンターカルチャーが世界中で沸騰した1970年前後[104]、日本の娯楽映画の拠点は東映にあった[43][104][105][106]。1975年(昭和50年)に新たなジャンルであるパニック映画『新幹線大爆破』を公開したが、日本ではヒットしなかったものの、海外では大ヒットした。同年の『トラック野郎』は『新幹線大爆破』よりヒットしたため、シリーズ化された[23]。
映画部門が斜陽となってからは、アニメ部門、テレビ事業部、ビデオ部、不動産部門などが、映画製作を支えて行く[17][107][108][109][注 6]。1988年4月?1999年3月期決算で映画会社単独として初の年間売上げ1000億円を達成した[118]。映画不況といわれた1980年代は、東映、東宝、松竹の大手三社はリスクの大きい映画製作に注力したわけではなく[108]、ビデオや不動産を中心とした多角経営戦略で利益自体は上げていた[108]。1990年代は渋谷を始め、船橋、福岡、仙台、広島など、全国の劇場再開発を手掛けた[109][118][119]。1972年に東映洋画を設立し[25]、洋ピンと呼ばれる欧米のポルノ映画を配給したのを手始めに[7][120]、1975年の『ドラゴンへの道』や1979年の『ドランクモンキー 酔拳』などブルース・リーやジャッキー・チェンといった香港映画を中心に配給[25][121]。