東映
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同年の『トラック野郎』は『新幹線大爆破』よりヒットしたため、シリーズ化された[23]

映画部門が斜陽となってからは、アニメ部門テレビ事業部ビデオ部、不動産部門などが、映画製作を支えて行く[17][107][108][109][注 6]。1988年4月?1999年3月期決算で映画会社単独として初の年間売上げ1000億円を達成した[118]。映画不況といわれた1980年代は、東映、東宝、松竹の大手三社はリスクの大きい映画製作に注力したわけではなく[108]、ビデオや不動産を中心とした多角経営戦略で利益自体は上げていた[108]。1990年代は渋谷を始め、船橋、福岡、仙台、広島など、全国の劇場再開発を手掛けた[109][118][119]1972年東映洋画を設立し[25]、洋ピンと呼ばれる欧米のポルノ映画を配給したのを手始めに[7][120]1975年の『ドラゴンへの道』や1979年の『ドランクモンキー 酔拳』などブルース・リージャッキー・チェンといった香港映画を中心に配給[25][121]。東映洋画部ではその他にも1977年から『宇宙戦艦ヤマト』シリーズなどアニメ映画を配給して[19][122][123]、邦画部門の不振を補ったほか、劇場用映画以外にテレビ映画の制作にも積極的に取り組んだ。時代劇が斜陽になったことから1975年(昭和50年)に京都撮影所のオープンセットの維持を画して、一部を東映太秦映画村とした[25][61]

多くの映像作家を生み出した『ぴあフィルムフェスティバル』(PFF)は、1977年12月に東映東京撮影所で開催された『第一回ぴあ展』を起源としている[124][125]

1978年正月公開の『柳生一族の陰謀』から従来の量産体制による2本立て興行に代わって、大作映画1本立て長期興行路線が定着[126]。それとともに、子会社に東映セントラルフィルムを設立して同年に『最も危険な遊戯』を第1作として公開[127]。1988年に解散するまで本社の大作路線を補完する中小規模予算のプログラムピクチャーの製作会社として、あるいは外注したピンク映画の配給会社として活動した[128][129][130]。1970年代後半から映画プロデューサーとして角川春樹と提携し[131]、『悪魔が来りて笛を吹く』、『白昼の死角』、『魔界転生[132]を手始めに、角川映画を数多く配給し始める[131][123]。1980年代に入ると提携作品や小屋(映画館)を貸すだけの買い取り作品などが増え、純然たる東映作品、純然たる東映育ちのスタッフ、キャストが作る作品が減った[133]

東宝は1943年の東宝争議の終結以来、ほぼ一貫して、左翼的な政治性を嫌い、エロチシズムを嫌い、暴力を嫌う『健全娯楽』路線を守ってきた[43][134]。東映が暴力を鮮やかに映画的な魅力に結晶させた時期に、東宝はずっと作品的にも興行的にも東映の後塵を拝していた[60][134]。東映の路線に乱れが生じ、行き詰ったとき東映は『健全娯楽』の東宝に抜かれることになる[60][134]

1960年代から始めていた『東映まんがまつり』は子供向け映画として定期興行をしていたが、1996年平成8年)からは凋落していった[135]


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