東映
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同業他社に比べて映像部門が多岐にわたる一方で、子会社を通じた映像以外への事業多角化も古くから行い[21][22][23][24]、かつてはプロ野球東映フライヤーズ)やボウリング、交通事業等を手掛け[16][23][24]、現在も京都撮影所の一部を活用したテーマパーク東映太秦映画村」を筆頭に、ホテルゴルフ場不動産開発事業を行っている[16][24][25]
沿革

東京・大泉の旧新興キネマ東京撮影所を買収して貸スタジオ経営を始め、やがて映画製作に進出した太泉映畫1947年10月15日設立)と、1938年昭和13年)東京横浜電鉄(のちの東急)の興行子会社として東急東横線の沿線開発を目的に設立され、東京の渋谷横浜で映画館を経営していたが、戦後大映より京都第2撮影所(旧新興キネマ京都撮影所)を賃借して映画製作に進出した東横映画(1938年6月8日設立)、双方で製作された作品配給のために1949年(昭和24年)10月1日設立された東京映画配給株式会社が、制作会社2社を吸収合併。1951年(昭和26年)4月1日、社名を東映株式会社と改めて再出発した[7][8][26](資本金1億7000万円)[27]。東横映画を吸収した事からもわかるように、設立の背景には東京急行電鉄が大きく関与している。阪急電鉄創業者の小林一三東宝を作ったように、五島慶太は東映を作った[28][29][30][注 3][注 4]。東横映画の社長であった黒川渉三が街の高利貸しから資金を調達して映画製作を続け[26][32][33]、黒川の後を継いだ者も赤字を増やし[28][33]、設立当時の東映の負債は、当時の金額で11億円(1989年頃の貨幣価値では数百億円以上[34])にのぼった[34][35][36]。当時の映画事業に融資をするような銀行はなく[37][38]岡田茂広島一中の先輩であった鈴木剛住友銀行頭取仲介して[38]、五島慶太は住友銀行に融資を頼み[34][38][39]、東急から融資することは背任行為とみなされ出来ず[34]、五島は五島家の株式や自宅も含む全資産を担保に住友銀行から融資を受けた[34][38][39]。五島慶太は男の大勝負の席に息子の五島昇を帯同させ教訓を与えた[34][39]。鈴木は、昇の顔を見ながら「東映がうまくいかなければ、この借金は孫子の代まで残りますが、いいですね」と一言念を押した[34][39]。淡々と話を聞くだけで全く動じない慶太の背中に昇は身震いし「事業家のオニを見た思いだった」と話している[34][39]。東映再建が失敗していたら五島家は破産していたといわれる[34]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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