東映
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その一方で、1971年二代目社長に就任した岡田茂は、映画会社で初めて事業部制を敷き[82]、定款を変更して[83]、「泥棒と詐欺以外は何でもやれ」と社員に命じ[23]、不動産[23][24][注 5]、ビデオ事業(東映ビデオ)の拡張[23]、出版事業(『テレビランド』等)[84]、パチンコ屋(東盛商事)[23][83]、ゴルフ場経営[23]、シティホテル建設[23]、サラ金[85]、葬儀屋[86]、仮面ライダーのキャラクターグッズ販売[87]、アニメショップ(アニメポリス・ペロ)[88]などをやらせて事業の再構築を図った[23][24][81][85][89]。1960年代半ばから映画の斜陽化が顕著になると、岡田は「いまの世情では純情度の高いものはダメで、俳優でも純情スターより不良性感度の強いものでなければ時代おくれだ」[78]「不良性感度のある映画しか観客は見ないんだ」[16]等と発言し、テレビに取り込まれない客層を狙い[16][18]、ヤクザ映画や、実録ヤクザものや[23]、エログロもの(東映ポルノ)を量産した[16][17][23][25][26][68][90][91][92][93]。岡田は「路線は少しづつ変わってもいいが、野性味を失ったら、東映という会社はダメになってしまうんだ」と述べていた[35]。岡田の社長就任で大手映画会社で東映は唯一、実質オーナーのいない会社になり[94]、結果的に岡田が長く居座ったが、役員の中に自分が次期社長になれるかもしれないと仕事のやる気も上がった[94]。1970年7月で直営館を含めた東映作品しか上映しない専門館が全国で250?260館、東映がイニシアチブを執る割番専門館を合わせると340?350館[95]。当時の地方の映画館の中には、東映と松竹の映画を一緒に上映したり、劇場主が勝手にプログラムを決めるような小屋があり[95]、これを実態のつかみにくいフラット館と呼ぶが[95]、この小屋も東映作品を掛けるため、当時東映のフィルムを掛ける映画館は全国で1100?1200館あった[95]。第二東映は失敗したが、そのとき増えた専門館のシステムは残った[95]。
1973年の『仁義なき戦いシリーズ』でヤクザ映画を実録ものに切り替える[17][23][25][43][68][73][96][97]。1973年から1975年の三年間は実録映画が会社総製作本数のほぼ30%を占めたが[18]、1976年からは大幅に減少した[18]。格闘映画では千葉真一と志穂美悦子の作品がブレイクし、千葉の格闘映画は海外でも大ヒットした[17][98][99][100][101]。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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