東映
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あの劇場網は羨ましい」となる[154]。東映も1990年代に「列島改造計画」などと名付け[155]、渋谷を始め、全国の劇場再開発を手掛け[118][155]、岡田は「今後は映画興行にプラス賃貸収入で収益を図っていく」と宣伝したが[155]、いかんせん、一等地に先代が仕込んでくれて減価償却を終えた大きな土地・建物を持つ東宝や松竹は[151][156][157]、それを利用して高層ビルを建てて、不動産賃貸料で大きな利益を出せるが[151][156][157][158]、戦後の会社である東映は代替地もままならぬ程、所有する土地が小さく、賃貸収入でも東宝や松竹と大きく差を付けられた[151][157]。東宝が日比谷の映画街を再開発して1987年10月にオープンした日比谷シャンテ賃貸収入が年間30億円といわれ[159]、当時東映は不動産の賃貸収入がほとんどなく[160]、これに驚いた岡田茂は「シャンテに続け!」と「東映本社丸の内に置かなくてもいいだろう」と丸の内から茗荷谷へ本社を移転させて跡地に賃貸ビルを建て、賃貸料を稼ごうと構想したが実現はしなかった[159][160][161]

1989年(平成元年)からはオリジナルビデオ東映Vシネマ」をリリースすることで映画の制作数を補うなど、スクリーン以外での映像展開を積極的に進めて対応を図っている[73]

2011年9月17日の『アジョシ』から、国際営業部が新レーベル「TOEI TRY△NGLE」(東映トライアングル)で約30年ぶりに日本国外映画の買い付けと配給を再開した[121][162]

2024年4月1日付で当社のパッケージ事業を連携子会社である東映ビデオに吸収分割(簡易吸収分割)により同社に承継。これに合わせて同年1月22日付で当社と東映による吸収分割契約を締結した[163]

2025年夏をもって64年間続いた本社および丸の内TOEIが入居する東映会館が施設の老朽化を理由に閉館予定、同時に本社を京橋エドグランへ一時移転する予定となっている[164]。詳細は「丸の内TOEI」を参照
社風

東映は、経理畑出身の大川博による徹底した予算主義と、徹底作品中心による大衆路線を採用した[165][166][167][168][169]。無駄なフィルムを使うと即座に始末書を書かされたと言われる[170]

スター・システム撮影所システムによって、特に時代劇全盛期には、序列化されたスターを頂点としてスタッフと俳優が派閥化されていた[171]。スターについても男性スターが中心で、女優はいわゆるお姫様女優であった[171][172][173]。岡田茂の造語である[16][23][46][174]「不良性感度」という言葉は[17][90][78][175][176]、時代劇ブームが終焉した1960年代半ばから、ヤクザ映画とアウトローによる暴力路線、アクション映画エログロなど犯罪・暴力をモチーフに量産され[16][23]、東映イメージを決定付けた[16][43][68][71][73][75][90][177][178]。しかし「不良性感度」を標榜した路線は女優の受け皿を狭めることとなり、関根恵子は東映に誘われても断っている[179]。1970年代半ばからの実録路線以降から男性客がメインとなり[180]、対照的に女性客は離れていく[181]。この路線は1980年代後半の『ビー・バップ・ハイスクール』シリーズまで続いた[182]

俳優の専属制度も大手では最も長く維持された。千葉真一松方弘樹梅宮辰夫ら昭和十年代生まれ世代の俳優たちにまで「もと東映仲間」というカラーが現在も強く残っている。これも、1970年前後に自社製作も専属制も事実上白紙にしてしまった東宝や、同じころから渥美清ハナ肇ザ・ドリフターズ石坂浩二ら舞台、テレビ出身の社外俳優に依存するようになっていた松竹などと一線を画している。

おしゃれなデートコースとしての映画館という風潮とは対極に位置することもあり[72]、早々に自社製作を事実上中止した東宝とは対照的にテレビ、アニメを含め徹底した自社製作を貫いてきた。しかし、テレビアニメに関しては、1970年代後半の「超電磁ロボ コン・バトラーV」をはじめとする「長浜ロマンロボシリーズ」から1980年代初頭の『百獣王ゴライオン』までの一部の作品を東映と無関係な制作会社に外注していたものもあった。
オープニング

当社配給作品のオープニングは、3つの岩に波が打ち寄せるシークエンスを背景に、前面に三角形に囲まれた当社のロゴマークが映し出されるシーンである[183][184]。3つの岩は、東映の前身である東京映画配給、太泉映画、東横映画の3社の統合と結束をイメージしている。社内での正式な呼び名は「荒磯に波」である。撮影場所は千葉県銚子市犬吠埼とされている。1954年(昭和29年)公開の『旗本退屈男 どくろ屋敷』から初めてオープニングに登場し[52]1955年(昭和30年)公開の『血槍富士』で初めてオープニングに登場し、1957年(昭和32年)公開の『旗本退屈男 謎の蛇姫屋敷』から毎回使われるようになった[185]。5年に一度くらい同じ所、同じ角度で取り直しているが[186]、波が少ないため[186]、デジタル導入以降は波をデジタルで足している[186]


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