東映ビデオ
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1970年6月10日、正式に東映ビデオ株式会社が発足した(社長・大川博[51][3][4]。発足時の社員は小林秀次、小黒俊雄ら十数人であった[38]岡田茂は、東映ビデオ設立直後の1970年7月の映画誌のインタビューで「ウチのビデオ部門は東映のそれまでの含み資産を頭に勘定しながら発足した。これから市場の拡大に伴って、いかに市場を握っていくかが勝負でしょう。ビデオは伸びますよ。面白い映画産業の一つです。テレビに次いで第三の成長映像産業部門が出現したということです。映画を封切って二年ほどしたらテレビに流す、テレビでなんぼか稼いで、何年か後にはビデオになる、これがビデオカセットになる。一つの材料で三つの部門に稼げる材料が出てきたことは事実です。結局、映画だけを主にしていてはダメになった。われわれが考えている以上に機械文明の方がどんどん進んでくるから、これにどう即応していくか考えなければいかんということです」などと話していた[56]。1989年の映画誌のインタビューでは「ウチは(ビデオ業界の)先発。昭和40年代後半、オープンリール時代から粘りに粘って頑張った」と話した[57]。東宝が最初にハードを開発中のソニーと提携したことから、東映は同じハードを開発中でレコードで既に提携していたビクターと提携するのではと見られていた[52]
1970年代

各電機メーカーはコンパクトで安い家庭用ビデオテープ・レコーダの開発を急いだが[58][59]、まだ製品は市販化されておらず、メーカーも一切宣伝していないのにも関わらず[50]、1970年春、新聞雑誌が近い将来の映像媒体として60年代はカラーTVの時代70年代はVTR時代、ポストカラーTVの本命などとビデオパッケージ(VP、映像ソフトの総称)を盛んに紹介し[47][58][59][60]、ビデオパッケージの認知度だけは50%にも昇った[50]電通が1970年に都内23区から500世帯をピックアップし調査を行い、電通発行の雑誌『マーケッティングと広告』1970年10月号に「ビデオパッケージの家庭への普及は5年先の1975年に全国世帯数13.3%ぐらいになるだろう」という調査結果を載せた[50]。このような1970年前後の状況を受け、1970年にポニー社長の石田達郎が基調演説として「10年後にビデオソフトは5000億円産業になる」と行く先々でぶち上げた[44][47][51][61][62][注釈 7]アメリカでさえ「10年先は10億ドル(当時のレートで約3,600億円)」としか言っていないのに[67]、この石田発言は根拠不明であった[67]

日本最初の長編ビデオソフトは1960年代後半にドリームライフ(ニラサワフィルム)が愛好者向けに『歌劇カルメン』全曲3時間をソニーの再生機とセットで販売したのが最初[49]。映画会社でビデオソフトを最初に発売したのは1969年12月の東宝で[43]、東映が1970年2月これに続いた[43]。最初は山一證券からの受託『転換社債』という企業内教育ソフトで[6][68]、これらはモノクロオープンリールで、劇映画をテープに移したものであったが、家庭はおろか、企業にもなかなか売れず、ニーズがなく当初は売り上げは上がらなかった[43]。当時風のない日の凧上げという名文句が出た[43]。"風のない日"の"風"とは"消費者のビデオソフトに対するニーズという意味である[43]

VTRの家庭への浸透にかなりの年月を要したため、東映ビデオも含めビデオ関連会社は開店休業状態が長く続き持ちこたえられず[69]、多くの会社が潰れていった[49]。またCATVなども1970年当時には存在し[50][70]磁気方式で開発を進める日本の電機メーカーに対して、アメリカは光学方式での研究が進み[47][67]パイオニアはビデオの商品化をやらず、レーザーディスクの商品化の研究を始めるなど[71]、「5000億円産業」発言は騒ぎ立て過ぎ[67]、ビデオの将来性については懐疑的な考えもあり[50][70][72]荻昌弘は「ここ一、二年の間に、ハードウェア―の面では革新的な進歩があった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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