各電機メーカーはコンパクトで安い家庭用ビデオテープ・レコーダの開発を急いだが[58][59]、まだ製品は市販化されておらず、メーカーも一切宣伝していないのにも関わらず[50]、1970年春、新聞雑誌が近い将来の映像媒体として60年代はカラーTVの時代70年代はVTR時代、ポストカラーTVの本命などとビデオパッケージ(VP、映像ソフトの総称)を盛んに紹介し[47][58][59][60]、ビデオパッケージの認知度だけは50%にも昇った[50]。電通が1970年に都内23区から500世帯をピックアップし調査を行い、電通発行の雑誌『マーケッティングと広告』1970年10月号に「ビデオパッケージの家庭への普及は5年先の1975年に全国世帯数13.3%ぐらいになるだろう」という調査結果を載せた[50]。このような1970年前後の状況を受け、1970年にポニー社長の石田達郎が基調演説として「10年後にビデオソフトは5000億円産業になる」と行く先々でぶち上げた[44][47][51][61][62][注釈 7]。アメリカでさえ「10年先は10億ドル(当時のレートで約3,600億円)」としか言っていないのに[67]、この石田発言は根拠不明であった[67]。
日本最初の長編ビデオソフトは1960年代後半にドリームライフ(ニラサワフィルム)が愛好者向けに『歌劇カルメン』全曲3時間をソニーの再生機とセットで販売したのが最初[49]。映画会社でビデオソフトを最初に発売したのは1969年12月の東宝で[43]、東映が1970年2月これに続いた[43]。最初は山一證券からの受託『転換社債』という企業内教育ソフトで[6][68]、これらはモノクロのオープンリールで、劇映画をテープに移したものであったが、家庭はおろか、企業にもなかなか売れず、ニーズがなく当初は売り上げは上がらなかった[43]。当時風のない日の凧上げという名文句が出た[43]。"風のない日"の"風"とは"消費者のビデオソフトに対するニーズという意味である[43]。
VTRの家庭への浸透にかなりの年月を要したため、東映ビデオも含めビデオ関連会社は開店休業状態が長く続き持ちこたえられず[69]、多くの会社が潰れていった[49]。またCATVなども1970年当時には存在し[50][70]、磁気方式で開発を進める日本の電機メーカーに対して、アメリカは光学方式での研究が進み[47][67]、パイオニアはビデオの商品化をやらず、レーザーディスクの商品化の研究を始めるなど[71]、「5000億円産業」発言は騒ぎ立て過ぎ[67]、ビデオの将来性については懐疑的な考えもあり[50][70][72]、荻昌弘は「ここ一、二年の間に、ハードウェア―の面では革新的な進歩があった。