東映ビデオ
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8ミリ映像部は1965年6月に三協精機横浜シネマの協力を得て、トーキーの8ミリ映写機を独自に開発する等[4]1960年代に8ミリ映写機を自社製作し全国に販売した[5][6][38]。当時の学校用教材の市町村ライブラリーはすべて16mmフィルムだったが、それを8ミリの学校ライブラリーに置き換えようというのが東映の狙いであった[4]。この部署が1967年2月、教材本部教材映機営業部になった[6]。部員はその後もビデオ一筋の道を歩み[38]、いずれも東映ビデオの専務を務めた小林秀次と小黒俊雄ら三人で、これが東映ビデオの母体である[5]。当時の8ミリはほとんどが業務用で学校面での需要が大きかったが[5]テレビが普及し始めると学校面での需要は減少し[4]、主な販路は遠洋航海の原油タンカー貨物船などの乗員の娯楽慰安用に限られるようになった[4][5][6]。それらの船舶は遠洋に出るとすぐに日本のテレビは入らなくなり、何ヵ月も寄港しないため8ミリが良く売れた[6]。ところがオープンリール式のビデオテープレコーダ(ビデオデッキ、VCR、VTR)[39]が発売されると8ミリはさっぱり売れなくなった。それで映機営業部でビデオの研究を始めたが、映画会社では研究にも限界があった[6]。1969年までの家庭用ビデオテープレコーダは、家庭用といってもカセット型はまだ開発途上であったため[40]、オープンリール式のモノクロで、本体20?30万円、専用小型テレビカメラ、モニターテレビを含めると50万円以上[41][42]、テープも一巻が3万円と高価だった[42]ハード(機器)もソフト(テープ)も高価なこの時代に、8ミリや初期のビデオの"一般の"購買層は、手元に置いて自分の所有物にしたいという心理を持つコレクターのような人たちであった[5][43]。特に1970年前後に個人でVTRを所有するケースは極めて稀であった[44]。1960年代も終わりかけの1969年10月29日、ソニーが最初のカセット式、しかもカラーの「ソニーカラービデオプレーヤー」を発売した[40][45]。このソニーのカセット式発売は東映は勿論、映画関係者を驚かせた[6]。機械も大きく値段も高価で家庭にはすぐは普及しなかったが[40][46]ビデオという未来産業への期待から、1970年1月19日発足のフジポニーを皮切りに、1970年1月に東映を退社した今田智憲が設立に参加した日本クラウン日本テレビ共同出資ユニオン映画が2月10日に発足されるなど[47][注釈 6]、放送局や映画界、レコード業界、広告業界、出版業界など、映像に関わる企業が3日に一社、計200社といわれたビデオ関連会社を設立する百花繚乱時代となった[18][47][49][50][51][52][53]。ビデオ産業で先頭に立っていたのはポニーとフジテレビニッポン放送などのフジサンケイグループであったが[50]東宝は最初はソニーと提携し研究を始め[18]松竹は将来ビデオが普及すれば音楽出版が窓口になると踏み、毎日放送と中央音楽出版(現・松竹音楽出版)を設立し、松竹、東映、大映日活もそれぞれ委員会を組織して研究を進めた[52]
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