東映ビデオ
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大川博の息子・大川毅とソリが合わず東映を退社し[19]、ユニオン映画に行っていた今田智憲が盟友・岡田茂に呼び戻され[124]、東映に経営企画部参与として復帰し[7][124][125]、1973年3月31日付で[124]、岡田に代わり東映ビデオ社長に就任(岡田は東映ビデオ会長)[19][20][124][注釈 8]。当時岡田が東映動画(現・東映アニメーション)の整理で組合と大揉めしていたこともあり、業界関係者からは「一度東映を出た人がまた帰ってくるなんて、大川社長の時代では考えられないこと、よく組合が黙っていたものだ」と言われた[124]。岡田は「今田君をビデオの社長に迎えたのはボクの友情からだと思われてるらしいが、それだけではない。彼の持つアイデアと才能を生かす方法はないかということで、みなに計って納得してもらったんだ。才能をフルに生かすためには、その企業をよく知ってなくちゃいけませんから。所詮、仕事は人と人のつながりから始まると思うし、何と云っても彼は東映の性格をよく知っている。今田君も他人のメシを食ってそれがよく分かっただろうし、彼のアイデアを生かせば、うちのビデオも伸びると思うんだ。勿論今田君も昔の自分だと思っちゃいかんわね。それは本人、よく知ってると思う」と話した[115]。今田は翌1974年8月、東映動画とタバック社長を兼任しながら、東映ビデオ社長を以降1989年まで16年間、東映動画を1993年まで20年間社長を務めた[20]。ビデオと動画の社長を長年兼任できたのは、ビデオ部門は1970年代はほとんど動きがなかったからである[61]。VTRが家庭になかなか浸透せず、コンパクトで安価なVTRは1975年から販売が開始されると1973年頃公表はされたが[7]、規格の問題などがあり、すぐに普及はしないのではと今田は考えた[7]。また1973年に西ドイツテレフンケンヨーロッパビデオディスクを発売するという話が日本にも伝わり、カセット式ではなくビデオディスクが先に家庭に浸透するのでは考えていた[7]。岡田からは8ミリのホームシアター実現を進めてくれと指示を受けた[7]。1973年暮れ、ミスター東映ビデオといわれた小林秀次部長が急逝し、後釜に小黒俊雄が坐る[84]

日本ビデオ協会(現・日本映像ソフト協会)加盟16社の1973年10月?1974年9月期、ビデオソフト売上は総額13億822万円[51]

1974年3月、家庭用ビデオソフト第一号『中山律子のボウリングアップ』を製作[33]。12月には米軍の従軍撮影隊が16ミリでカラー撮影した太平洋戦争のフィルムを東京チャンネル企画、東映ビデオ製作で[118]、歴史記録ビデオの集大成『激動の記録―映像でみる戦後』(全六巻・各25分)・『秘録・昭和戦争史』(全十巻・各15分)・『カラー太平洋戦争史・慟哭の記録』(45分、5万円)を販売した[118][127]。1978年から手掛けた映像カラオケは制作費を節約するため軍歌などの映像はこれらの映像を[5]、演歌には東映任侠ものの映像が使われた[5]

ビデオ時代の幕が開けたのは1975年[33][45][58][128][129]。ソニーが小型で画質の良いベータマックス方式のVTRを発売した1975年をVTRの本格普及元年とされる[130]。日本ビクターが1976年9月にVHS方式のVTRを発売し、本格的なVTRの普及が始まった[46][131]。東映ビデオは1975年11月、来るビデオ時代の到来に先駆け、カラー家庭用ビデオソフト「ホームビデオシリーズ」(『ピンク・フロイドの幻想』(60分)・『任侠に咲いた花 藤純子』(30分))などを発売した[33]

1977年6月1日、日本ビデオ倫理協会の発足で、東映ビデオの小黒俊雄部長が理事長に就任[104]

1977年6月23日、東京有楽町日本劇場1階の東宝ビデオショップ内に日本で初めての本格的ビデオ・レンタルショップ(レンタルビデオ)がオープンした[132][133]

春、夏の東映まんがまつり以外に一年を通じ子供たちの見る映画がないと、今田社長のアイデアで、少年向け映画を非劇場映画として、東映と系列の劇場以外の全国のホールでの上映を決め[134][135]、東映ビデオとして初めて映画の配給に乗り出した[135]


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