渾大防五郎が所長として采配を振るい、第一作『風小僧』を皮切りに1959年11月までに、以降『白馬童子』39本、「歴史シリーズ」として『源義経』『新書太閤記』『大楠公』『幕末物語』『赤穂の人々』が各1クール13本が製作された[18]。日数のかけられない仕事のため、パーマネント・セットを作って合理化し、テレビ映画といえばロケーション本位だったのをセットを主に出来るようにして、それまで1クール13本の制作に60日かかっていたのを45日まで短縮させた[18]。こうした実績から東映テレビ・プロダクションは、東映本社の指揮から離れテレビ劇専用のスタジオとしてステージ四杯、ダビング・ルーム一杯を設備し[18]、作品企画の本拠をNET藤川公成映画部長の手元に置いて[18]、同年11月2日、新たに株式会社東映テレビ・プロダクションを設立した[1][2][3]。設立当初の本社は、東京都中央区京橋(当時)の東映と同一に置き、製作所を練馬区東大泉町(現在の東大泉)の東京撮影所内に置いた[1][注釈 1]。設立時の陣容は、取締役社長・大川博、専務取締役・壷井与(坪井与)、役員:岡田茂・伊藤義・今田智憲・関政次郎・上津原義夫・藤川公成(NET映画部長)、監査役:平林義次・川口文雄と、東映本社の各重要パートの人材を網羅した[18]。資本金は50万円(当時)[1]。製作の中心を担ったのは、渾大防五郎から所長を交代した東映東京生え抜きの関政次郎所長とNET映画部長の藤川公成[18]。設立を機に京都と東映で撮っていたテレビ映画を東京に統合した[18]。テレビ映画部門強化の経緯は当時、アメリカニューヨーク七局のテレビが『ショウほど素敵な商売はない』『雨に唄えば』『或る夜の出来事』といった名作フィルムを、週平均で108本、一局一日平均4時間流し、映画の都ハリウッドでもパラマウント映画を除いてテレビ・フィルムの制作を始め、その額は1億5000万ドル(540億円)に上るといわれ、アメリカのゴールデン・アワー(夜7時30分―11時)に毎週放映される全プログラムの80%がハリウッドで作られていたというテレビに於けるフィルム番組の盛大を物語る状況があり[18]、日本でもテレビ1000万台時代がこの1962年にやってきそうと予想され、やがて日本もアメリカのようになっていくのではないか、という見通しから準備というより実行の段階として東映テレビ・プロダクションは設立された[18]。