その後、1967年(昭和42年)3月興行で「東映こどもまつり」の名称を使用した[16]。この興行は『少年ジャックと魔法使い』『サイボーグ009 怪獣戦争』と初めて長編色彩漫画(原文ママ) 二本立てにカラーマンガを配した番組構成だったが[6]、春休みの子どもファンの人気を独占し各地で大ヒットした[6]。それまでのマンガ週間は興行価値が低かったが、この回は小学校前の幼児の来館が圧倒的に多くその付き添いとして親(大人)が大量に来館し、大きな儲けを生んだ[6]。続く1967年7月興行で初めて「東映まんがまつり」の名を初使用[16]。その後、「東映こどもまつり」[16]→「東映まんがパレード」[16][17]→「東映ちびっ子まつり」[16]と東映自身が名称変更し[16][17]、1969年(昭和44年)3月以降は再び「東映まんがまつり」に統一された[1][18][16]。東映の社史『クロニクル東映2』の49頁に「東映では東映こどもまつり東映まんがパレードなどの名称で、年2回のまんが週間を恒例として実施し、子供たちの圧倒的支持を得て、好成績をあげてきたが、'69年の春からは、このまんが週間の名称を東映まんがまつりに統一した」と書かれている[18]。『テレビマガジン』などの子供向け雑誌では、記事や割引き特典などでタイアップが行われた。この回で初めてマンガの中に実写ドラマ『チャコとケンちゃん』)がプログラムに組まれ[19]、以降は特撮もの等、実写作品がプログラムに入ることも増え、「まんがまつり」という名称は使われなくなった。この1969年春休み興行は前売り券(350円)を買った人に翌1970年の大阪万博の親子入場券(1200円)が抽選で当たるオマケをつけた[19]。実写作品が増えてくる理由は、1970年前後に「まんがまつり」の制作主体である東映動画の組合運動の活発化の影響も考えられる[20]。興行は1960年代末に春休み・夏休みの年2回で定着し[21]、1970代には春に長編、夏に中編ないし短編の新作を含む形式が確立した[21]。これは当時は春休みの方が児童を多く集客していた実態に拠ったもので[21]、より大きな興行収入を上げうる時期に、制作原価の高い作品を充てた[21]。当時は冷暖房設備が乏しかったこと、夏休みは学童層は旅行や帰省などもあり、また年々、レジャーが多様化し、夏休みの映画館への集客には一定の困難が伴った等の理由で[21]、春興行がメインに置かれた[21]。1960年代は冬休みも二度やったが[22]、この時代はヤクザ映画の全盛期のため、短期間の冬休みはヤクザ映画が優先された[22]。1969年以降はしばらく途絶え、1975年と1976年に再び行うも、一部地域のみの限定公開となり[注釈 1]、その後は1984年から1986年まで「全国公開」で行った程度である[22]。
観客動員数は年々、上昇の一途をたどり[8]、『長靴をはいた猫』を中心とした1969年春休み興行は[8]、350万人を突破し、開館以来の新記録を全国91館で記録した[8]。これを受け、"ヤクザの東映からまんがの東映の印象を浸透させ始めたとも評された[8]。他社にも真似られ[8]、1969年夏休み興行は、東宝、ブエナビスタが参入し[8]、三つ巴の争いとなった[8]。ブエナビスタは『白雪姫』と『パブロとチキタ』を東映と同じ封切日にぶつけた[8]。
1980年代初期までは、メインとなる1本から3本程度の劇場版オリジナル作品に、テレビシリーズの放送済みエピソードのブローアップ版を数本加えた編成をとっており、『マグマ大使』『スペクトルマン(宇宙猿人ゴリ)』『キャプテン翼』など東映以外の製作会社の作品を入れることもあった[注釈 2]。こうしたテレビ作品の上映は、映像ソフトの存在しなかった1970年代以前には貴重な再視聴の機会となっており、ジャンルを多岐に広げることでより多くの児童層の集客を図っていた[3]。
しかし家庭用ビデオの普及によりテレビ作品の上映は需要が減ったことから、新作率の向上や、話題性のある作品が投入されるようになった[3]。1979年には『宇宙戦艦ヤマト』の劇場版2本(『宇宙戦艦ヤマト(1977年公開版)』、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』)と1972年に放映された『海のトリトン』を前半の部分を編集した「海のトリトン 劇場版 前編」の計3本を上映したアニメファン向きの「宇宙戦艦ヤマト・フェスティバル」を開催している[23]。