東映まんがまつり
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1963年(昭和38年)12月に「わんわん忠臣蔵」の併映(東京地区のみ)として、テレビアニメ『狼少年ケン』を上映、さらに1964年(昭和39年)3月から6月にかけて、再映版長編アニメや一般映画の併映として『狼少年ケン』を上映したところ、いずれも好評だったことから、1964年(昭和39年)7月に「お子様週間・マンガ大行進」[4]として子供向けテレビアニメを数本まとめて上映[4][9][13][14]。上映期間中、全国11直営劇場のロビーに、宣伝部と各メーカーのタイアップによる、おもちゃ絵本日用品原文ママ)などのマンガのキャラクターグッズ33品目を販売、子供たちの人気を集めた[4]。『週刊映画プレス』1964年3月28日に「今週随一の動員を示しているのは春休みを控え、入試等も一段落ついたこの時とばかり出したお子様(御家族?)番組の成功である」「小学校が休みだから悪かろうと思わなかったが漫画の猿と狼にかき回されるとは人間さま出演の映画のなさけなきことよと言いたくなる。このダークホース番組は大川社長の立案だそうだが、骨のあるモノノフは危険也というので反対した。『これは社長絶対来ますよ』と言うとイエス・マンに思われたかもしれない。だが結果はジャリが財布もちの家族をつれ込み、売店にもかせがすということになった。莫大な製作費の巨匠作品でこの二本立ての安いものにかなわないものがあるに至っては、企画は製作にも番組編成にも通じる」と書かれている[15]。途中の「骨のあるモノノフは … 」の意味は分からないが、いずれにしろ、他社の作品に比べて、東映の二本立ては再映とテレビ映画の組み合わせで、再映は当然製作費は0円で、一本分の相当安い製作費+宣伝費で他社作品に勝ち、当時の映画関係者に驚かれたものと見られる。東映は原価のかからない再映作品に、多少の経費でできるテレビアニメのブローアップ(画面の引き伸ばし)上映が、多額の経費が掛かる一般映画よりも興行収入が上がり、関連商品の売り上げも大きいことで、テレビアニメに映画興行の新たな商機を見出し、春、夏、冬の学校の長期間の休みには子供向けのまんが映画「東映まんがまつり」を製作、上映することを決めたといわれる[13][14]。3回目の1965年(昭和40年)夏の上映時に「この社の名物の子ども週間」と書かれていることから、最初から好評を博したものと考えられる[5]

その後、1967年(昭和42年)3月興行で「東映こどもまつり」の名称を使用した[16]。この興行は『少年ジャックと魔法使い』『サイボーグ009 怪獣戦争』と初めて長編色彩漫画原文ママ) 二本立てにカラーマンガを配した番組構成だったが[6]、春休みの子どもファンの人気を独占し各地で大ヒットした[6]。それまでのマンガ週間は興行価値が低かったが、この回は小学校前の幼児の来館が圧倒的に多くその付き添いとして親(大人)が大量に来館し、大きな儲けを生んだ[6]。続く1967年7月興行で初めて「東映まんがまつり」の名を初使用[16]。その後、「東映こどもまつり」[16]→「東映まんがパレード」[16][17]→「東映ちびっ子まつり」[16]と東映自身が名称変更し[16][17]1969年(昭和44年)3月以降は再び「東映まんがまつり」に統一された[1][18][16]。東映の社史『クロニクル東映2』の49頁に「東映では東映こどもまつり東映まんがパレードなどの名称で、年2回のまんが週間を恒例として実施し、子供たちの圧倒的支持を得て、好成績をあげてきたが、'69年の春からは、このまんが週間の名称を東映まんがまつりに統一した」と書かれている[18]。『テレビマガジン』などの子供向け雑誌では、記事や割引き特典などでタイアップが行われた。この回で初めてマンガの中に実写ドラマ『チャコとケンちゃん』)がプログラムに組まれ[19]、以降は特撮もの等、実写作品がプログラムに入ることも増え、「まんがまつり」という名称は使われなくなった。この1969年春休み興行は前売り券(350円)を買った人に翌1970年の大阪万博の親子入場券(1200円)が抽選で当たるオマケをつけた[19]。実写作品が増えてくる理由は、1970年前後に「まんがまつり」の制作主体である東映動画の組合運動の活発化の影響も考えられる[20]。興行は1960年代末に春休み・夏休みの年2回で定着し[21]、1970代には春に長編、夏に中編ないし短編の新作を含む形式が確立した[21]。これは当時は春休みの方が児童を多く集客していた実態に拠ったもので[21]、より大きな興行収入を上げうる時期に、制作原価の高い作品を充てた[21]。当時は冷暖房設備が乏しかったこと、夏休みは学童層は旅行や帰省などもあり、また年々、レジャーが多様化し、夏休みの映画館への集客には一定の困難が伴った等の理由で[21]、春興行がメインに置かれた[21]。1960年代は冬休みも二度やったが[22]、この時代はヤクザ映画の全盛期のため、短期間の冬休みはヤクザ映画が優先された[22]。1969年以降はしばらく途絶え、1975年1976年に再び行うも、一部地域のみの限定公開となり[注釈 1]、その後は1984年から1986年まで「全国公開」で行った程度である[22]

観客動員数は年々、上昇の一途をたどり[8]、『長靴をはいた猫』を中心とした1969年春休み興行は[8]、350万人を突破し、開館以来の新記録を全国91館で記録した[8]。これを受け、"ヤクザの東映からまんがの東映の印象を浸透させ始めたとも評された[8]。他社にも真似られ[8]、1969年夏休み興行は、東宝ブエナビスタが参入し[8]、三つ巴の争いとなった[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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