このほか、末端のアマチュア無線では多くの無線家が非常通信に呼び出しを行い、7.030MHz(指定非常通信周波数)にて情報収集、7.043MHzでの安否確認に協力しており、これによって孤立した集落が救われた例もあった[293][294][295]。
一方、地震動・液状化現象・津波により広範囲で被災した茨城県と千葉県では、地震直後の計画停電の対象エリアに茨城県潮来市や千葉県旭市が含まれるなどしたが、原因の一つとして被災状況が十分に報道されなかったことが挙げられた[296][297][298]。
また、震災によって被災地では共同アンテナが破損したほか、地上デジタル放送の普及活動が停止したため、対策として地デジ難視対策衛星放送を行った上で、2011年7月24日に予定されていた地上デジタル放送への全面移行を、岩手・宮城・福島の3県については2012年3月31日に延期した[299]。
日本国外でも、各メディアが地震関連のニュースを大きく報じた[300][301][302]。
新聞地震の影響を報じるスポーツ新聞(2011年3月12日、大阪府大阪市)
震災発生直後、全国紙やブロック紙、地方紙数紙が一斉に号外を発行した。『中日新聞』は11日付夕刊の最終版であるE版に(2)という版を設けて1面トップで報じた(ただし地震発生と(大)津波警報発表との事実のみ)。3月12日付の朝刊はスポーツ紙を含めた各紙とも、1面から最終面まで最大級の見出しと写真で震災の状況を報道した。また、日曜日の夕刊は通常は休刊であるが、『読売新聞』と『朝日新聞』は3月13日(震災発生から3日目の日曜日)に「特別夕刊」を発行した。3月12日からしばらくの間、最終面に掲載されている番組表を中面に移設して震災関連の報道を優先した新聞社も数多く存在した(全国紙は3月末まで番組表を中面に移設)[303]。震災直後に発行された新聞では紙面のほとんどが震災報道に当てられたほか、ページ数もおおよそ半分に削減され[注 17]、新聞広告も自粛された。
被災地に立地する新聞社は、災害援助協定を結ぶ近隣地域の新聞社に制作・印刷を委託するなどして新聞発行を継続した[304][305]。岩手県盛岡市の岩手日報社は、東北地方の地方新聞社6社(河北新報社を除く)で締結する災害時相互支援協定の発動を初めて要請し、自家発電機を有する青森市の東奥日報社で4ページの紙面を印刷。宮城県仙台市に発行本社を置くブロック紙『河北新報』は、免震構造の輪転機で印刷した2頁の号外を地震発生当日の23時すぎに各避難所に届けた。翌日の朝刊は相互支援協定を締結していた新潟日報社に紙面制作を委託し、8頁の朝刊を発行。これらにより、停電のため映像として知られることのなかった沿岸部の深刻な津波被害の詳細を多くの市民が目にすることとなった[306]。石巻市の地方紙『石巻日日新聞』は本社が津波で浸水して輪転機や編集作業用のコンピュータなどを全て失った。水に浸からずに済んだ印刷用ロールから切り出した紙に油性フェルトペンで集めた情報を手書きした壁新聞を作成し、震災翌日から市内の避難所に張り出して情報提供を6日間にわたって実施した[307]。7日目には入手した複合コピー機を使用して印刷した新聞の配布を開始し、2週間後には関係者が応急復旧させた古い輪転機で印刷を再開した。この壁新聞は米国ワシントンD.C.にあるニュース総合博物館「ニュージアム」からの要請により、6日分全てが寄贈された。
東北や関東の被災地では、交通インフラの損壊や燃料不足によって配達が遅延し、復旧までに4 - 5日以上を要した。『岩手東海新聞』(岩手県釜石市、宮古市などを中心とする夕刊紙)は、本社にあった唯一の輪転機が水没し、読者の多くも被災したため収入の確保が難しくなり、3月29日付で全従業員を解雇し、休刊となった。現在も発行再開の見通しは立っていない[308]。このほか、『いわき民報』(福島県いわき市の夕刊紙)[309]、『しんぶん赤旗』東北版(日本共産党の機関紙)[310]、『大崎タイムス』(宮城県大崎市の日刊紙)、『三陸新報』(宮城県気仙沼市の日刊紙)などが数日休刊となった。