東日本大震災
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特に多くの人が亡くなったのが地域の防災支援ボランティアの役割を持つ消防団員[注 9]で、発生時刻が平日の昼間の時間帯であり、地震から津波襲来までの時間に、防災マニュアル通りに防潮堤や水門閉鎖などの業務に従事したり、住民の避難誘導や情報収集、逃げ遅れた住民の救助などにあたったり、災害対応のため詰所へ参集途上の消防団員254人(2023年3月1日時点[4])が死亡ないし行方不明となった[156][157][158]

2011年7月14日15時 (JST) 時点で、死者・行方不明者数の合計が100人以上の自治体は、岩手県、宮城県、福島県の22市町村に上っていた[159]
青森県

青森県内での死者の数は八戸市で1名、三沢市で2名の計3名、行方不明者は八戸市の1名であった。いずれも地震に伴い発生した津波によるものである。負傷者は、重傷者18名、軽傷者77名の計95名であった。

私立学校関係の被害は、3市町16校(園)に及び、その被害額は約9,000万円であった。このうち、幼稚園が1市7園、約300万円、中学校が1市1校、8万円、高等学校が1市5校、約8,500万円、専修学校が3市町3校、約200万円となっている。

県庁舎関係の被害額は約100万円であった。このうち、県庁舎が約50万円、合同庁舎が約50万円となっている。県庁舎では、南棟、東棟に廊下のひび割れや床の一部破損などが生じたほか、西棟立体駐車場でも車両の入庫ができない程度の破損が生じた。合同庁舎では、むつ合同庁舎に被害が見られ、壁のひび割れなどが主なものである。

廃棄物処理施設関係では、八戸地域広域市町村圏事務組合のし尿処理施設2施設の地下ポンプ室が津波により冠水し、その被害額は約11億8,100万円であった[160]
岩手県.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、東日本大震災による岩手県の被害状況に関連するカテゴリがあります。

岩手県の被害は津波によるものが中心であった。被害が特に大きかったことから宮城県、福島県とともに被災3県として総称される。

岩手県沿岸は海岸線近くまで山地が迫り、平地が狭いという地形のため、津波による浸水面積は58km2と3県では最も小さかった。しかし、その狭い平地に漁港と市街地が広がっていたため、浸水域の人口は約11万人であり、浸水域の人口密度は1,900人/km2と3県で最も大きかった。

県中南部は津波高が増すリアス式海岸のため、津波常襲地域であり、津波への対策(防波堤防潮堤)の規模は日本随一であった。過去の津波の伝承や石碑(自然災害伝承碑)が至るところに残り、住民の防災意識も高く、多くの人々が避難行動を取ったが、想定を大きく上回る規模の津波が押し寄せたため、甚大な被害を受けた。

陸前高田市では、市民会館や市民体育館などの指定避難所の多くがほぼ天井まで水没して避難者の大半が死亡し、市街地全域が壊滅的被害を受けた。高田病院で4階まで浸水し27人が亡くなるなど、1,800人弱の犠牲者を出した。市職員も.mw-parser-output .frac{white-space:nowrap}.mw-parser-output .frac .num,.mw-parser-output .frac .den{font-size:80%;line-height:0;vertical-align:super}.mw-parser-output .frac .den{vertical-align:sub}.mw-parser-output .sr-only{border:0;clip:rect(0,0,0,0);height:1px;margin:-1px;overflow:hidden;padding:0;position:absolute;width:1px}1⁄3弱に当たる113人が犠牲になり、浸水域人口に対する犠牲者率は、宮城県女川町に次いで高く、大槌町と同率の11.72%であった。

大槌町では、役場で災害対策本部の準備をしていた職員60人中、町長であった加藤宏暉[161]を含め30人以上が亡くなるなど、1,300人弱が犠牲になった。また、火災も発生した。浸水域人口に対する犠牲者率は、宮城県女川町に次いで高く、陸前高田市と同率の11.72%であった。

釜石市では、本来は災害後の避難生活を主とした施設であった鵜住居地区防災センターで津波避難の訓練も行われていたため(最大の可能性として)244人が避難して210人の死者が発生するなど、約1,050人が犠牲となった。元新日鉄釜石ラグビー部の選手で、釜石ラグビー協会会長であった佐野正文[162]マスターズ陸上で世界記録を持っていた104歳の下川原孝も犠牲となった[163]。また、ギネス世界記録にも認定されていた世界最深の釜石港湾口防波堤が破壊された[164]。鵜住居地区は、市内の犠牲者の半分以上を占める悲劇の一方で、「釜石の出来事(奇跡)」と呼ばれる津波教育の一部成功例もあった。市立釜石東中学校では、地震発生直後に生徒らが自己判断で避難先に各自走り出し、それを見た隣接の鵜住居小の児童も続いた。第一避難先の介護施設に到着して整列点呼で全員の無事を確認したが、想定にとらわれない教育のもと、中学生が小学生の手を引いてさらに高台へ走り出し、それを見た地域住民も後に続いた。学校は10 mを超える高さの津波に襲われ、第一避難先の介護施設も1階が水没したが、当日登校した生徒児童約600人全員が無事[165]であった。また、生徒達がさらに上へと避難していく姿を見た介護施設側は、1階の入所者を3階へ移動させていたため、犠牲者が出なかった。

山田町では、介護老人保健施設「シーサイドかろ」で入所者74人と職員14人が亡くなるなど、750人以上が犠牲となった。また、津波に加えて大火も発生した。旧船越村では過去に高台移転をしていたのであるが、津波の記憶が薄れるにつれ低地に家が立つようになっていた[166]

宮古市の田老地区は、総延長2433 mのX字型、海抜10 mの巨大な防潮堤が城壁のように地区を取り囲んでおり、住民は万里の長城と呼び、「津波防災の町」を宣言するほどであったが、それを破壊、越流した津波により地区全体で185人が亡くなるなど、500人以上が犠牲となった。

大船渡市では、特別養護老人ホーム「さんりくの園」で62人が亡くなるなどし、延べ400人以上が犠牲となった。

この他に、野田村田野畑村でも甚大な被害を受けた。

津波によって破壊された岩手県上閉伊郡の大槌町役場


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