東急玉川線
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砧線は、二子玉川園を発車後、ほぼ90度のカーブを描いて[注釈 6]国道246号(玉川通り)を横断(.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度36分54秒 東経139度37分39秒 / 北緯35.614922度 東経139.627385度 / 35.614922; 139.627385 (玉川通り))、京西小学校分校(現在の二子玉川小学校)南側に存在した中耕地停留所(北緯35度36分57秒 東経139度37分32秒 / 北緯35.615750度 東経139.625542度 / 35.615750; 139.625542 (中耕地))を経て西進、多摩堤通りと平面交差して吉沢停留所に至り、吉沢橋(北緯35度37分02秒 東経139度37分08秒 / 北緯35.617326度 東経139.619011度 / 35.617326; 139.619011 (吉沢橋))で野川を渡り、東京都水道局砧下浄水所(旧渋谷町立浄水場)脇を通り、砧本村(北緯35度37分07秒 東経139度36分32秒 / 北緯35.618562度 東経139.608982度 / 35.618562; 139.608982 (砧本村))へ至っていた。

林順信編著『玉電が走った街 今昔』によれば、吉沢 - 砧本村間の伊勢宮河原(側線あり交換可能)、大蔵の2つの停留所は太平洋戦争前に廃止され、戦後、吉沢の側線も撤去された。

終点の砧本村停留所は、開設時は東京府北多摩郡砧村にあり、停留所が設けられた付近が砧村の本村であったことから、砧本村の名が付けられたものである。しかし、砧本村停留所は砧村の中心からは大きく離れていた場所にあった(砧村の中心地は小田急小田原線祖師ヶ谷大蔵駅であり、砧本村停留所からはかなり遠い位置である)。停留所前には切符委託販売も兼ねた売店があり、行商が商う姿もみられた。戦前、砧本村停留所前にわかもと製薬の工場があり、砧線はその通勤の足としても用いられた。わかもと製薬跡地は現在、駒澤大学玉川校舎となっている。

かつて当路線を狛江市まで延伸させる計画があったが、1952年に特許が失効している[21]

廃線後は代替交通として、二子玉川と砧本村の間に、多摩堤通りや天神森橋を経由する東急バスの路線が開設された。その際、旧砧本村駅前は「東急バス折返所」となった[22]。二子玉川までの路線は現在に至るまで運行されている(#玉電廃止後のバス交通を参照)。

1968年の秋 二子玉川園駅砧線ホームにて

1968年の秋 砧線中耕地駅を望む[23]

1968年の秋 砧線吉沢駅周辺での収穫風景

1968年の秋 砧線吉沢駅付近の踏切

1968年の秋 砧線吉沢駅にて

車両

車両は玉川線と同型が用いられた。

1950年代までは主にデハ30形、以後廃止時まではデハ60形が用いられ、デハ60形は中耕地-吉沢間の急曲線を連結して通過するため、京浜急行電鉄発生品の首振り角度が大きいK-2A密着連結器に交換する改造が行われた。

運賃は、軌道線である玉川線が線内のみの運賃体系であったのに対し、鉄道線となった砧線は他の鉄道線と通しで計算された。閉塞はスタフ閉塞を用いていた。
遺構

砧線の線路跡地はおおむね道路(一部歩行者専用道)として整備された。中耕地停留所跡地の歩道上には、砧線が走ったことを示すレリーフが埋め込まれ、駅跡には石碑が建てられている。中耕地駅跡周辺の砧線跡は「砧線跡歩道」として整備されている[23]。吉沢橋東側の吉沢停留所跡に建つクリニックの敷地には、東京急行電鉄の旧社紋が入った境界標が残る(写真参照)。2007年(平成19年)上流の新吉沢橋と合わせて架橋し直された吉沢橋には、吉沢橋を渡る玉電の写真(林順信著『玉電の走った街 今昔』より転載されたもの)と玉電についての解説文が掲載された碑が設けられ、欄干には玉電のレリーフが埋め込まれた。

砧本村駅跡地は整備され、現在は世田谷区立鎌田二丁目南公園と東急バス折返所になった。旧砧本村駅前広場である東急バス待合所付近には、旧線路脇の柵が残されているが、かつてここが駅であったことを明示するものはない。なお、砧本村駅のプラットホーム上屋とベンチはバス待合所に転用された[24]が、2022年(令和4年)12月7日に老朽化のため撤去された。

中耕地 - 吉沢間。中耕地方向を望む。線路跡は道路転用されたが、道幅は大きく拡幅されることはなかった。街路樹は二子玉川の町の花ハナミズキ

中耕地駅跡地に建つ石碑。

吉沢橋たもと付近に残る社紋の刻印された標柱。

砧本村駅前広場跡(現:東急バス折返所)。

砧本村バス待合所の上屋及びベンチ。砧本村駅で使用されたもの。

溝ノ口線

1927年(昭和2年)7月15日に開業。当初は玉川線と線路が接続し、区間便のほか玉川線との直通運転もされていた。玉川 - 二子間は併用軌道二子橋を参照)だが、二子 - 溝ノ口間は専用軌道で開業した。1943年(昭和18年)に東急大井町線に編入された後、1945年(昭和20年)に軌道線から地方鉄道に転換、1966年(昭和41年)に高架化されて二子橋の併用軌道が解消され、現在は東急田園都市線の一部区間となっている。二子橋西詰から二子新地駅にかけてわずかに遺構(空き地)が確認できる。また、二子新地駅から溝の口駅は高架化されたが、高架橋の下に玉川線・地上時代の大井町線の遺構(橋梁など)が確認できる。溝ノ口終点は現在の溝の口駅の位置と異なり、国鉄南武線に平行する形で設置されており、その跡地は駅前広場となっている。
天現寺橋線・中目黒線

1938年(昭和13年)まで、玉川電気鉄道、東京急行電鉄は、天現寺橋線と中目黒線の2路線を、渋谷以東で運行していた。

天現寺橋線は、渋谷を出ると、山手線の内側、渋谷川に沿って南下し、中通(現在の明治通り)上を走りながら天現寺橋に至る路線であった。中目黒線は、天現寺橋線の渋谷橋から西進し、下通(現在の駒沢通り)上を中目黒に至った。中目黒は、東急東横線中目黒駅とは接続しておらず、現在の山手通りと駒沢通りの交差点(中目黒立体交差)手前にあった。

渋谷を発着する天現寺橋線は、玉川線が渋谷駅地平に発着していた1937年(昭和12年)7月まで、線路敷設の主目的でもあった砂利輸送のため玉川線と線路がつながっていたが、同年玉電ビル建設により玉川線と分離されている。

分断以降の天現寺橋線の渋谷駅は東横線渋谷駅前、東京高速鉄道(現在の東京メトロ銀座線)ガード直下に置かれていた。のち1957年(昭和32年)3月26日ハチ公口にあった都電青山線の渋谷駅前電停がこの隣接地に都電天現寺橋線共々移設してターミナルを形成。都電廃止後は東口都バス乗り場となっていたが、再開発に伴い東横線渋谷駅跡共にビルが建設されている。また山手線のガード跡は長らく東急百貨店東横店西館と東館を結ぶ連絡通路となっていた。

1938年(昭和13年)、両路線は東京市電に運営が委託され、1948年(昭和23年)に東京都に譲渡された。東京都譲渡後は、天現寺橋 - 渋谷橋 - 中目黒間が8系統(築地始発)、天現寺橋 - 渋谷橋 - 渋谷駅前間が34系統(金杉橋始発)として運行された。その後都電撤去計画により、渋谷橋 - 中目黒間は1967年(昭和42年)12月9日、天現寺橋 - 渋谷橋 - 渋谷駅前間は1969年(昭和44年)10月25日にそれぞれ廃止されている。
下高井戸線詳細は「東急世田谷線」を参照

三軒茶屋 - 下高井戸間を結ぶ下高井戸線は1969年の玉川線廃止時に世田谷線(せたがやせん)に改称されて現存する。

1969年までは玉川線(本線)の渋谷方面から直通運転を行っており、下高井戸線は前述した三軒茶屋の三叉路から世田谷通り側の専用軌道に入り、西太子堂から下高井戸へと向かっていった。
運行形態

廃止間際のダイヤは全線での通し運転が基本で、玉川線の渋谷 - 三軒茶屋 - 二子玉川園間と下高井戸線直通の渋谷 - 三軒茶屋 - 下高井戸間の電車が交互に運行されていたが、大橋駅に車庫があった関係で早朝や深夜を中心に大橋発着の区間電車や渋谷への送り込みの回送電車が多数設定されていた。この他、朝夕ラッシュ時には一部の電車が渋谷 - 三軒茶屋、玉電中里、駒沢、用賀間で折り返し運転を行っており、下高井戸線でも渋谷 - 三軒茶屋 - 玉電山下(現・山下)間の区間電車が設定されていた。砧線は線内の通し運転のみで玉川線への直通運転は無く、二子玉川園 - 砧本村間を終日折返し運転していた。


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