廃線後、渋谷駅跡はバス乗り場に転換され、東名急行バス(現在は解散)、大井町駅や世田谷野沢方面行きなどの路線バスや東急百貨店東横店と東急百貨店本店を連絡する無料送迎バス、高速バス・ミルキーウェイが発着した。終端部分はターンテーブルによりバスの向きを転換する方式であった。また、渋谷駅と道玄坂中腹を結ぶ旧専用軌道部分はバス専用道路となった。渋谷駅再開発事業に伴う渋谷マークシティの建設により、現在はこのターンテーブルのあるバス乗り場とバス専用道路はほぼ消滅し、駅構内は京王井の頭線の渋谷駅が拡幅されそのコンコースと線路敷になったが、道玄坂の玉川線専用軌道入口部分は現在マークシティへの接続道路となっている。一方、前述のとおりかつての玉川線渋谷駅の向かいにあったJR山手線改札に「玉川改札」の名が残っていた[20]。
三軒茶屋から玉電中里、上馬にかけての専用軌道は、そのまま並行する国道246号線が拡幅されて渋谷方面車路になっている。
旧用賀駅跡周辺は廃止以降暫く更地状態となっていたが、東京都道427号瀬田貫井線に転用された。沿道のホーム跡地には、かつて駅があったことを示す石柱が設置されている。
玉電瀬田から二子玉川園駅にかけての専用軌道は、世田谷区道が軌道跡に並行して整備され、軌道跡は植栽や一部は公園となり、下り坂の途中からは田園都市線のトンネル坑口が現れ、以降軌道跡はそのまま田園都市線の高架線路敷地に転用されている。また、二子玉川園駅跡は長らく東急ストアが設置されていたが、再開発のため撤去され、2011年(平成23年)3月に二子玉川ライズ・ドッグウッドプラザが建った。
その他、玉電の名残として、東急バスの停留所名に旧電停の名称が用いられている例が見られる(道玄坂上、大橋、池尻、三宿、三軒茶屋、中里、上馬、駒沢、用賀、瀬田、身延山別院、二子玉川、中耕地、吉沢、砧本村)。 砧線は軌道線として敷設されたが、1945年(昭和20年)に地方鉄道法に基づく鉄道線に転換された路線である。 砧線は、二子玉川園を発車後、ほぼ90度のカーブを描いて[注釈 6]国道246号(玉川通り)を横断(.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度36分54秒 東経139度37分39秒 / 北緯35.614922度 東経139.627385度 / 35.614922; 139.627385 (玉川通り)
桜新町 - 用賀間の専用軌道跡。現在は東京都道427号瀬田貫井線に転用された。正面が用賀で、高層ビルは玉電車庫用地跡に建設された世田谷ビジネススクエア、SBSタワー。
上記とほぼ同位置。桜新町まで道路中央の併用軌道で進んできた玉電は電停から以西は道路北側に移り用賀2丁目で道路を横切る形で専用軌道に入り用賀を目指した。<写真>左が専用軌道跡、右は旧大山街道。
瀬田停留所跡。玉川方より用賀方を望む。中央の歩道部分が玉電瀬田停留所跡。手前の道路が専用軌道跡。
砧線
路線
林順信編著『玉電が走った街 今昔』によれば、吉沢 - 砧本村間の伊勢宮河原(側線あり交換可能)、大蔵の2つの停留所は太平洋戦争前に廃止され、戦後、吉沢の側線も撤去された。
終点の砧本村停留所は、開設時は東京府北多摩郡砧村にあり、停留所が設けられた付近が砧村の字本村であったことから、砧本村の名が付けられたものである。しかし、砧本村停留所は砧村の中心からは大きく離れていた場所にあった(砧村の中心地は小田急小田原線の祖師ヶ谷大蔵駅であり、砧本村停留所からはかなり遠い位置である)。停留所前には切符委託販売も兼ねた売店があり、行商が商う姿もみられた。戦前、砧本村停留所前にわかもと製薬の工場があり、砧線はその通勤の足としても用いられた。わかもと製薬跡地は現在、駒澤大学玉川校舎となっている。
かつて当路線を狛江市まで延伸させる計画があったが、1952年に特許が失効している[21]。
廃線後は代替交通として、二子玉川と砧本村の間に、多摩堤通りや天神森橋を経由する東急バスの路線が開設された。その際、旧砧本村駅前は「東急バス折返所」となった[22]。二子玉川までの路線は現在に至るまで運行されている(#玉電廃止後のバス交通を参照)。 車両は玉川線と同型が用いられた。 1950年代までは主にデハ30形、以後廃止時まではデハ60形が用いられ、デハ60形は中耕地-吉沢間の急曲線を連結して通過するため、京浜急行電鉄発生品の首振り角度が大きいK-2A密着連結器に交換する改造が行われた。 運賃は、軌道線である玉川線が線内のみの運賃体系であったのに対し、鉄道線となった砧線は他の鉄道線と通しで計算された。閉塞はスタフ閉塞を用いていた。 砧線の線路跡地はおおむね道路(一部歩行者専用道)として整備された。中耕地停留所跡地の歩道上には、砧線が走ったことを示すレリーフが埋め込まれ、駅跡には石碑が建てられている。中耕地駅跡周辺の砧線跡は「砧線跡歩道」として整備されている[23]。吉沢橋東側の吉沢停留所跡に建つクリニックの敷地には、東京急行電鉄の旧社紋が入った境界標が残る(写真参照)。2007年(平成19年)上流の新吉沢橋と合わせて架橋し直された吉沢橋には、吉沢橋を渡る玉電の写真(林順信著『玉電の走った街 今昔』より転載されたもの)と玉電についての解説文が掲載された碑が設けられ、欄干には玉電のレリーフが埋め込まれた。 砧本村駅跡地は整備され、現在は世田谷区立鎌田二丁目南公園と東急バス折返所になった。旧砧本村駅前広場である東急バス待合所付近には、旧線路脇の柵が残されているが、かつてここが駅であったことを明示するものはない。なお、砧本村駅のプラットホーム上屋とベンチはバス待合所に転用された[24]が、2022年(令和4年)12月7日に老朽化のため撤去された。 1927年(昭和2年)7月15日に開業。当初は玉川線と線路が接続し、区間便のほか玉川線との直通運転もされていた。玉川 - 二子間は併用軌道(二子橋を参照)だが、二子 - 溝ノ口間は専用軌道で開業した。1943年(昭和18年)に東急大井町線に編入された後、1945年(昭和20年)に軌道線から地方鉄道に転換、1966年(昭和41年)に高架化されて二子橋の併用軌道が解消され、現在は東急田園都市線の一部区間となっている。
1968年の秋 二子玉川園駅砧線ホームにて
1968年の秋 砧線中耕地駅を望む[23]
1968年の秋 砧線吉沢駅周辺での収穫風景
1968年の秋 砧線吉沢駅付近の踏切
1968年の秋 砧線吉沢駅にて
車両
遺構
中耕地 - 吉沢間。中耕地方向を望む。線路跡は道路転用されたが、道幅は大きく拡幅されることはなかった。街路樹は二子玉川の町の花ハナミズキ。
中耕地駅跡地に建つ石碑。
吉沢橋たもと付近に残る社紋の刻印された標柱。
砧本村駅前広場跡(現:東急バス折返所)。
砧本村バス待合所の上屋及びベンチ。砧本村駅で使用されたもの。
溝ノ口線
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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