この節の加筆が望まれています。
歴史「東急世田谷線#歴史」も参照
玉川電気鉄道
種類株式会社
本社所在地 日本
東京府渋谷区大和田町一[2][3]
設立1903年(明治36年)10月4日[2]
業種鉄軌道業
事業内容旅客鉄道事業、電燈電力供給、自動車運輸、遊園地 他[2]
代表者社長 五島慶太[2]
資本金9,730,000円(払込額)[3]
発行済株式総数250,000株(内新株140,000)[3]
主要株主
日本興業 147,693株[3]
第一生命保険 7,480株[3]
帝国生命保険 5,000株[3]
津村重紀 3,710株[3]
北川日出二郎 3,260株[3]
特記事項:上記データは1938年(昭和13年)現在[3]。
テンプレートを表示
さようなら玉電装飾電車
玉電(玉川線)は、1896年(明治29年)、玉川砂利電気鉄道により、二子多摩川付近の砂利を東京都心に輸送することを主目的として、東京市麹町区の三宅坂と玉川の間の路線開設が出願されたことを起源とする。1902年(明治35年)に渋谷 - 玉川間の軌道敷設が許されると、1903年(明治36年)玉川電気鉄道が設立され、1907年(明治40年)、玉川電気鉄道の手により渋谷 - 玉川間が開業した[注釈 2]。
玉川から運んできた砂利を都心に輸送するため、渋谷では、都心に線路を伸ばしていた東京市電と軌道が接続され、渋谷には砂利運搬車両の留置線も設置された。1922年(大正11年)、玉川電気鉄道により渋谷 - 渋谷橋の間に天現寺橋線が開通すると、玉川線と天現寺橋線は直通運転された。 1924年(大正13年)には玉川 - 砧(のちの砧本村)間に砧線が開業し、二子橋の上流にあたる大蔵付近(東京府北多摩郡砧村)の砂利の輸送を開始した。このように、砂利輸送を主目的とした性格から「ジャリ電」と呼ばれることもあった。関東大震災後の市内復興に際し、それまでの木材にに替わる新しい建築材料であるコンクリートの原料となる砂利運搬には威力を発揮した。
玉川電気鉄道は路線を拡張してゆく。1925年(大正14年)、三軒茶屋 - 下高井戸間に下高井戸線(のちの世田谷線)を開業。1927年(昭和2年)には天現寺橋線渋谷橋より中目黒に至る中目黒線、玉川 - 溝ノ口間に溝ノ口線を開業した。溝ノ口線の開業時には、多摩川を渡る二子橋の建設費の一部を玉川電気鉄道が負担し、二子橋は橋の中央に線路が敷設された形態の道路・軌道の併用橋となった。1927年12月に設立された目黒玉川電気鉄道[4]は株式の大半を玉川電気鉄道が保有し[5]、役員も玉川電気鉄道の役員で占められていた[6]。しかし目黒-玉川間[7]及び清水-駒沢間[8]の免許は1935年に起業廃止となった[9]。
1934年(昭和9年)、二子橋より下流での砂利採取が全面禁止され、さらに玉川電気鉄道の経営権が東京横浜電鉄や目黒蒲田電鉄を経営していた五島慶太らに移って以降は、砂利輸送からは撤退し、軌道線は旅客輸送が中心となっていった。1938年(昭和13年)、玉川電気鉄道は東京横浜電鉄に合併され、1942年(昭和17年)、社名変更に伴い東京急行電鉄となった。
砂利輸送から旅客輸送に軸足を移した玉川電気鉄道は、東京府世田谷区の新町(現在の世田谷区深沢七丁目・八丁目付近)に東京信託を通じて住宅地を開発し[注釈 3]、沿線住民を電車利用者とする施策をとった。溝ノ口線開業の際には、溝ノ口駅付近・久地近辺の丘陵部を開発した[注釈 4]。
また、玉川電気鉄道及び後身の東京急行電鉄は、旅客誘致の施策の一環として、明治期から景勝地であった玉川・瀬田地区に、多摩川の川魚を出す料亭や演芸場「玉川閣」(ぎょくせんかく)を擁する「玉川遊園地」を開設したほか、「玉川第二遊園地」(のちのよみうり遊園、「二子玉川園」)や「玉川プール」(世田谷区上野毛。東京都多摩市に移転する前の東急自動車学校があった場所)を瀬田河原に開設し、二子多摩川の兵庫島、久地の梅林、二子の桃林などとあわせて、玉川線・溝ノ口線を都心部からの行楽輸送の足としても機能させている。
玉川線の支線として開設された下高井戸線の三軒茶屋 - 下高井戸間は、渋谷 - 下高井戸間で直通運転がなされた。溝ノ口線は、1943年(昭和18年)、溝口周辺の軍需工場関連輸送に対応する輸送力を確保するために狭軌に改軌の上、大井町から二子玉川園に至っていた鉄道線である大井町線に編入され、二子橋の併用軌道の上を大井町線の電車が走り溝ノ口まで乗り入れるようになった。天現寺橋線は、戦前は渋谷でレールがつながり直通運転されていた時期もあったが、玉電ビルディング(のちの東急百貨店東横店西館)の建設に伴い分断され、東京市電への運営委託を経て、1948年(昭和23年)に東京都に譲渡された。