東急玉川線
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1920年の改軌で開業以来の二軸単車が淘汰され、木造ボギー車で置き換えられた。その後は、鋼製ボギー車がそれに続いた。

これらは単純な直接制御器を搭載しており、連結運転時の総括制御が行えず1両編成での運転が長く続いたが、デハ70形間接非自動制御器(HL方式)を搭載したのを皮切りに、デハ80形の新製、木造車であるデハ120形のデハ80形への車体更新、さらには鋼製車デハ304060形に対する連結化改造に伴い総括制御の可能な間接制御器への置き換えが進み、第二次世界大戦後、2両連結運転によるラッシュ時の輸送力増強が実現した。

また、一軸台車による2車体連接構造の奇抜な流線型高性能電車デハ200形1955年(昭和30年)に導入。「タルゴ」「ペコちゃん」の愛称が普及した。また芋虫型に見えたことから「イモ電」「いもむし」と呼ばれることもあった。

その後は地下鉄建設計画の推移もあって車両更新が進まず、東横線デハ7000形の米国バッド社ライセンスによるオールステンレス車体技法を取り入れた鋼製車デハ150形4両が新造されるにとどまった。

行先標は横長の物が正面中央に付けられ、本線系統は白地に黒文字で「渋谷」「二子玉川」など、支線系統は赤地に白抜き文字で「渋谷」「下高井戸」などと書かれていた。なお、行先標は後に起終点を矢印で結んだものに変更された。また150形は行先標の代わりに同様の方向幕が上部に付いていた。

2両連結の場合、1967年(昭和42年)より合理化の一環としてデハ70・80・150・200形の4形式について「連結2人のり」の標識が車外に取り付けられ、乗客は車両の前・最後部で乗車し、各車中央、連結寄り扉で降車するように改められた。乗務員は運転士(1両目)と車掌(2両目)だけであった。この方式は現在も世田谷線で実施されている。
遺構

併用軌道区間が長かった玉川線は、廃止後、併用軌道区間の道路整備が進み、また、大橋車庫跡が首都高速道路大橋ジャンクション用地に転用されるなどし[注釈 5]、構築物の撤去が進んだ。

廃線後、渋谷駅跡はバス乗り場に転換され、東名急行バス(現在は解散)、大井町駅や世田谷野沢方面行きなどの路線バスや東急百貨店東横店と東急百貨店本店を連絡する無料送迎バス、高速バス・ミルキーウェイが発着した。終端部分はターンテーブルによりバスの向きを転換する方式であった。また、渋谷駅と道玄坂中腹を結ぶ旧専用軌道部分はバス専用道路となった。渋谷駅再開発事業に伴う渋谷マークシティの建設により、現在はこのターンテーブルのあるバス乗り場とバス専用道路はほぼ消滅し、駅構内は京王井の頭線の渋谷駅が拡幅されそのコンコースと線路敷になったが、道玄坂の玉川線専用軌道入口部分は現在マークシティへの接続道路となっている。一方、前述のとおりかつての玉川線渋谷駅の向かいにあったJR山手線改札に「玉川改札」の名が残っていた[20]

三軒茶屋から玉電中里、上馬にかけての専用軌道は、そのまま並行する国道246号線が拡幅されて渋谷方面車路になっている。

旧用賀駅跡周辺は廃止以降暫く更地状態となっていたが、東京都道427号瀬田貫井線に転用された。沿道のホーム跡地には、かつて駅があったことを示す石柱が設置されている。

玉電瀬田から二子玉川園駅にかけての専用軌道は、世田谷区道が軌道跡に並行して整備され、軌道跡は植栽や一部は公園となり、下り坂の途中からは田園都市線のトンネル坑口が現れ、以降軌道跡はそのまま田園都市線の高架線路敷地に転用されている。また、二子玉川園駅跡は長らく東急ストアが設置されていたが、再開発のため撤去され、2011年(平成23年)3月に二子玉川ライズ・ドッグウッドプラザが建った。

その他、玉電の名残として、東急バスの停留所名に旧電停の名称が用いられている例が見られる(道玄坂上、大橋、池尻、三宿、三軒茶屋、中里、上馬、駒沢、用賀、瀬田、身延山別院、二子玉川、中耕地、吉沢、砧本村)。

桜新町 - 用賀間の専用軌道跡。現在は東京都道427号瀬田貫井線に転用された。正面が用賀で、高層ビルは玉電車庫用地跡に建設された世田谷ビジネススクエア、SBSタワー。

上記とほぼ同位置。桜新町まで道路中央の併用軌道で進んできた玉電は電停から以西は道路北側に移り用賀2丁目で道路を横切る形で専用軌道に入り用賀を目指した。<写真>左が専用軌道跡、右は旧大山街道。

瀬田停留所跡。玉川方より用賀方を望む。中央の歩道部分が玉電瀬田停留所跡。手前の道路が専用軌道跡。

砧線
路線

砧線は軌道線として敷設されたが、1945年(昭和20年)に地方鉄道法に基づく鉄道線に転換された路線である。

砧線は、二子玉川園を発車後、ほぼ90度のカーブを描いて[注釈 6]国道246号(玉川通り)を横断(.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度36分54秒 東経139度37分39秒 / 北緯35.614922度 東経139.627385度 / 35.614922; 139.627385 (玉川通り))、京西小学校分校(現在の二子玉川小学校)南側に存在した中耕地停留所(北緯35度36分57秒 東経139度37分32秒 / 北緯35.615750度 東経139.625542度 / 35.615750; 139.625542 (中耕地))を経て西進、多摩堤通りと平面交差して吉沢停留所に至り、吉沢橋(北緯35度37分02秒 東経139度37分08秒 / 北緯35.617326度 東経139.619011度 / 35.617326; 139.619011 (吉沢橋))で野川を渡り、東京都水道局砧下浄水所(旧渋谷町立浄水場)脇を通り、砧本村(北緯35度37分07秒 東経139度36分32秒 / 北緯35.618562度 東経139.608982度 / 35.618562; 139.608982 (砧本村))へ至っていた。

林順信編著『玉電が走った街 今昔』によれば、吉沢 - 砧本村間の伊勢宮河原(側線あり交換可能)、大蔵の2つの停留所は太平洋戦争前に廃止され、戦後、吉沢の側線も撤去された。

終点の砧本村停留所は、開設時は東京府北多摩郡砧村にあり、停留所が設けられた付近が砧村の本村であったことから、砧本村の名が付けられたものである。しかし、砧本村停留所は砧村の中心からは大きく離れていた場所にあった(砧村の中心地は小田急小田原線祖師ヶ谷大蔵駅であり、砧本村停留所からはかなり遠い位置である)。停留所前には切符委託販売も兼ねた売店があり、行商が商う姿もみられた。戦前、砧本村停留所前にわかもと製薬の工場があり、砧線はその通勤の足としても用いられた。わかもと製薬跡地は現在、駒澤大学玉川校舎となっている。

かつて当路線を狛江市まで延伸させる計画があったが、1952年に特許が失効している[21]

廃線後は代替交通として、二子玉川と砧本村の間に、多摩堤通りや天神森橋を経由する東急バスの路線が開設された。その際、旧砧本村駅前は「東急バス折返所」となった[22]。二子玉川までの路線は現在に至るまで運行されている(#玉電廃止後のバス交通を参照)。

1968年の秋 二子玉川園駅砧線ホームにて

1968年の秋 砧線中耕地駅を望む[23]

1968年の秋 砧線吉沢駅周辺での収穫風景

1968年の秋 砧線吉沢駅付近の踏切

1968年の秋 砧線吉沢駅にて

車両

車両は玉川線と同型が用いられた。

1950年代までは主にデハ30形、以後廃止時まではデハ60形が用いられ、デハ60形は中耕地-吉沢間の急曲線を連結して通過するため、京浜急行電鉄発生品の首振り角度が大きいK-2A密着連結器に交換する改造が行われた。

運賃は、軌道線である玉川線が線内のみの運賃体系であったのに対し、鉄道線となった砧線は他の鉄道線と通しで計算された。閉塞はスタフ閉塞を用いていた。
遺構

砧線の線路跡地はおおむね道路(一部歩行者専用道)として整備された。


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