東寺
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また、金堂は慶長8年(1603年)に豊臣秀頼の寄進により、片桐且元を奉行として再建されている。五重塔寛永21年(1644年)に徳川家光によって再建が行われた。

1895年明治28年)には、豊臣秀頼が慶長6年(1601年)に建てた三十三間堂の西大門を、東寺の南大門(重要文化財)として移築している。

何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門・金堂・講堂・食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。

なお、東寺の執行は代々にわたって空海の母方の叔父である阿刀大足の子孫が、弘仁14年(823年)から1871年(明治4年)まで務めた。
金堂金堂(国宝)

国宝。東寺の中心堂宇で諸堂塔のうち最も早く建設が始められ、東寺が空海に下賜された弘仁14年(823年)までには完成していたと推定される。当初の堂は文明18年(1486年)の土一揆で焼失し、その後1世紀近く再建されなかった。現存の建物は慶長8年(1603年)に豊臣秀頼の寄進により、片桐且元を奉行として再建された。入母屋造本瓦葺きで、外観からは二重に見えるが一重裳階(もこし)付きである。建築様式は和様大仏様天竺様)が併用され、挿肘木を多用して高い天井を支える点に大仏様の特色が見られる。内部は広大な空間の中に本尊の薬師如来坐像と日光菩薩月光菩薩の両脇侍像が安置されている。

なお、金堂は豊臣秀吉の造立した方広寺初代大仏殿(京の大仏)を模したものとの伝承がある[7]。秀吉の造立した方広寺大仏殿を描いた絵図資料として、慶長11年(1606年)作とされる狩野内膳の『豊国祭礼図屏風』があるが[8]、それに描かれた大仏殿の外観と東寺金堂の外観が極めて類似している。金堂には大仏殿のように、堂外から内部に安置されている仏像の御顔を拝顔できるようにする観相窓が設けられているが、それの高さは、安置されている薬師如来の御顔の高さと合っていないので、窓を開けても如来の光背しか見えず、観相窓としては無用の代物になってしまっているという [7]。ただし明かり取り窓としては機能しているという[7]。これは本来この建物のデザインは、大仏を安置するために意匠されたもので、丈六の薬師如来像を安置するために意匠されたものではない(東寺のために意匠されたものではない)ためとされている[7]。江戸時代に刊行された『都名所図会』には金堂について「本尊は薬師仏、脇士は日天・月天なり。焼失の後、豊臣秀頼公の再建なり。洛東大仏殿の模形なり。」と記されている。

金堂の修理工事では、金堂の棟札が確認された。それには豊臣秀頼の寄進によることや片桐且元を奉行として造立工事がなされたことが記されていた。また方広寺の鐘銘に類似した「国家太平 臣民快楽」の文言の記載があった[9]。方広寺の鐘銘では「国家安康 君臣豊楽」と刻字され、それが徳川家康を分断して呪詛し、豊臣を君主とする意図があると徳川方に解釈され、方広寺鐘銘事件さらには大坂の陣での豊臣家滅亡に発展してしまったことは周知の通りである。

木造薬師如来および両脇侍像(重要文化財):像高は中尊(薬師如来)が288cm、左脇侍(向かって右)の日光菩薩が290cm、右脇侍(向かって左)の月光菩薩が289cm。中尊が座す裳懸座の腰回りに12体の十二神将像が立つ。三尊像は寄木造、漆箔仕上げ、玉眼(眼の部分に水晶を嵌め込む)。台座に付属する十二神将像は寄木造、彩色、玉眼。中尊の像内納入の木札、十二神将像の像内銘や納入品、及び、東寺長者を務めた義演の日記である『義演准后日記』の記載などから、この三尊像は慶長7年から同9年(1602年 - 1604年)にかけて、七条大仏師康正が康理、康猶、康英らとともに制作したことがわかる。中尊の台座を蓮華座でなく裳懸座とする点、中尊が左手に薬壺(やくこ)を持たない点などは古い要素で、本像が平安時代前期の当初像の形制にならって制作されたことを窺わせる(薬師如来の像は、左手に薬壺を捧持する形が一般的だが、奈良市薬師寺にある金堂薬師如来像(奈良時代)のような古像は薬壺を持っていない)[10]


金堂

金堂本尊・薬師如来坐像

金堂本尊・薬師如来坐像

慶長11年(1606年)作の『豊国祭礼図屏風』。方広寺大仏殿が描かれている。

講堂講堂(重要文化財)五仏(講堂安置)のうち大日如来と阿弥陀如来(手前)

重要文化財。金堂の背後(北)に建つ。東寺が空海に下賜された弘仁14年(823年)にはまだ建立されておらず、天長2年(825年)に空海により着工されて、承和6年(839年)に完成した。この頃は講堂と金堂の周囲を廻廊が巡る形をとっていた。この創建当初の堂は文明18年(1486年)の土一揆による火災で焼失するが、わずか5年後の延徳3年(1491年)に再建されている。単層入母屋造で純和様である。金堂が顕教系の薬師如来を本尊とするのに対し、講堂には大日如来を中心とした密教尊を安置し、立体曼荼羅を構成する。
立体曼荼羅

講堂の須弥壇中央には大日如来を中心とする五体の如来像(五仏、五智如来)、向かって右(東方)には金剛波羅密多菩薩を中心とする五体の菩薩像(五大菩薩、五菩薩)、向かって左(西方)には不動明王を中心とした五体の明王像(五大明王)が安置されている。また、須弥壇の東西端にはそれぞれ梵天帝釈天像、須弥壇の四隅には四天王像が安置されている。以上、全部で21体の彫像が整然と安置され、羯磨曼荼羅(立体曼荼羅)を構成している。これら諸仏は、日本最古の本格的な密教彫像であり、空海没後の承和6年(839年)に開眼供養が行われているが(『続日本後紀』)、全体の構想は空海によるものとされる。21体の仏像のうち、五仏のすべてと五大菩薩の中尊像は室町時代から江戸時代の補作であるが、残りの15体は講堂創建時の像である。

これら21体の仏像群からなる立体曼荼羅(以下「講堂立体曼荼羅」)については、他に例のない尊像構成であることから、空海がいずれの経典に基づき、どのような意図で構想したものか明らかでなく、その教理的背景については古くから論争がある[11][12]

講堂立体曼荼羅の表す意味について、東密(真言系密教)では古くから「仁王経曼荼羅」(にんのうぎょうまんだら)を表したものであると伝承されてきた。仁王経曼荼羅とは、鎮護国家を祈念する修法である仁王経法の本尊となるもので、『仁王念誦儀軌』を所依経典とする。しかし、講堂立体曼荼羅の尊像構成は『仁王念誦儀軌』だけでは説明がつかない[13]。建築史家の足立康は1940年の論文で、講堂立体曼荼羅は特定の一つの経典に基づくものではなく、『金剛頂経』『仁王経』等から空海が適宜選択した尊像を組み合わせたものであるとした[14]。仏教学者の高田修は、足立説を発展させ、講堂立体曼荼羅は金剛界法と仁王経法に基づく二元的構想によるものであるとし、21体のうちの主要15尊(五仏、五菩薩、五明王)については三輪身説(さんりんじんせつ)に基づいて配置されたものであるとした[15]。三輪身とは、自性輪身(じしょうりんじん)、正法輪身(しょうぼうりんじん)、教令輪身(きょうりょうりんじん)を指し、三輪身説とは、真理そのものである自性輪身が五仏、五仏の慈悲の姿である正法輪身が五菩薩、五仏が忿怒をもって救い難い衆生を導こうとする姿である教令輪身が五明王にあたるとする説である[11][16]。美術史家の石田尚豊は高田説をおおむね支持したうえで、『摂無碍経』(しょうむげきょう)との関係を強調した[15]

以上のような、金剛界法と仁王経法にまたがる二元的曼荼羅という説は長らく支持されてきたが、三輪身説との関連については、この説の成立が平安時代末期の12世紀に下り、空海の時代にはなかった思想であるとして、疑問が呈されていた[15]2009年(平成21年)には原浩史により講堂立体曼荼羅に関する新説が提示された。原は、平安時代に東寺講堂で仁王経法が修された形跡のないことなどから、従来の説には疑問があるとし、講堂立体曼荼羅は、広義の『金剛頂経』に基づくものであるとした。ここでいう広義の『金剛頂経』とは、『金剛頂経』系の諸経の総称であり、空海の時代にはいまだその全貌が知られていなかったが、原の説では、空海は自らの理解した『金剛頂経』に基づいて主要十五尊の選択・構成を行ったとする[16]
諸仏

五仏坐像(重要文化財):金剛界
大日如来を中心とし、周囲に宝生如来阿弥陀如来不空成就如来阿?如来を配す。


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