1959年にはニッポン放送、文化放送、松竹、大映と共にフジテレビを開局。テレビにも本格的に進出する。 1960年代から映画は斜陽産業と言われるようになり、東宝も顕著な観客減少に悩んでいたが、大規模な量産体制を他社と共に保っていた。しかしカラーテレビの普及が本格化した1970年代になると観客減少はさらに深刻な状況となり、大映は倒産、日活はポルノ路線に転向。東宝もこの危機を脱するため、前述の東宝四大喜劇シリーズを全て終了するなど1972年に本社での映画製作を停止し五社協定が終焉する。製作部門を分離独立させて発足した「東宝映像」(現在の東宝映像美術、設立1971年、社長田中友幸)[13]と傍系会社の「東京映画」(のちの東京映画新社、設立1983年、社長川上流一)、「東宝映画」(設立1971年、社長藤本真澄)、新たに設立した製作会社「芸苑社」(設立1972年、社長佐藤一郎)、「青灯社
映画製作部門の大幅縮小
本社での映画製作を停止した後は、映画配給や不動産部門、芸能事務所である東宝芸能へ軸足を移しながら経営の合理化を進めた。ただし阪急グループとしてのイメージや、駅から近い一等地に座席数の多い一流映画館を多く持つため、同業他社のようなポルノ映画やヤクザ映画の製作は行わず、そのような外部製作品を配給することも少なかった。この時期、「東宝の映画館なら家族連れやアベックでも安心」といったイメージを死守したことは、後年まで続く東宝繁栄の伏線となった。1969年 - 1978年に東宝チャンピオンまつりとして子供向け映画を上映した。しかし予算的には非常にタイトとなり、評価の高い山本迪夫監督の怪奇映画の多くは2本同撮で作られており、ゴジラシリーズでは音楽や着ぐるみの使い回しが多用されるようになった。
映画製作本数が減った分、テレビ部の奮闘が目立つようになり、『太陽にほえろ!』、『俺たちは天使だ!』などがヒット。テレビ作品の収録は70年代までは砧撮影所は使用せずに国際放映や円谷プロを制作協力のクレジットで孫受け発注した。スタジオを持たない円谷プロの場合は東京美術センターなどの傍系スタジオを使用した。東宝配給の劇場映画も実際は大映京都撮影所(勝プロダクション作品など)や日活撮影所(石原プロモーション、ホリプロ作品など)で製作するものが増えた[注釈 6]ため、砧撮影所は急速に稼働率が低下、人員も離散した。1977年には、ベテランの映画監督である岡本喜八と堀川弘通両監督を解雇した。
それでも1980年代半ばまでは、東宝シンデレラコンテスト出身者や東宝芸能に所属し人気アイドルとなった斉藤由貴や沢口靖子主演のアイドル映画を東宝映画が製作するなど、独立プロダクション程度の活動は継続。この時期からはアニメーションの製作にも関与するようになる。
この後バブル景気となり、日劇、渋谷東宝会館、日比谷映画劇場、有楽座、梅田劇場、北野劇場などが建て替えられ映画興業以外もおこなう複合施設となり、資産価値を増加させた。 1990年代に入ると、自社(株式会社東宝映画)での邦画製作は「ゴジラ シリーズ」を除き行われなくなり、主にテレビ局[注釈 7]や外部プロダクションが製作した映画を配給し、成功を収めた。 2000年以降は、ワーナー・マイカル・シネマズが優位に立っていたシネコン市場に本格的に参入し、2003年のヴァージン・シネマズ・ジャパン株式会社(現・TOHOシネマズ株式会社)の買収で、グループ企業のスクリーン数では第1位を誇っていた[注釈 8]。 その後も日本映画界や興行界に不動の地歩を占め続け、現在に至っている。製作会社(テレビ局が多い)も大予算をかけた自信作は興行に強い東宝へ配給委託し、それがまた数字を積み上げるという好循環が重なった結果、平成期以降は一人勝ち状態が定着、21世紀にはさらに独走の幅を広げた。1980年代前半までライバルとして競り合ってきた東映や松竹[注釈 9]とも、今では大差を出している。 また、かつて映画館用地として購入した全国の一等地の物件の賃貸を中心とする不動産事業も、営業利益のうち約4割を占め、地味ではあるが、業績を下支えする安定した重要な事業になっている[15]。
現在