東宝
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阪急阪神ホールディングス(阪急電鉄阪神電気鉄道)、エイチ・ツー・オー リテイリング阪急百貨店阪神百貨店)とともに、阪急阪神東宝グループの中核企業である(旧:阪急東宝グループ)。

他の阪急阪神東宝グループ同様に、三和グループ(旧三和銀行系)のメンバーであるが、阪急電鉄と異なり三水会には参加せず、みどり会のみに参加している[5]
歴史
発足と急成長

1932年8月に阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)の小林一三によって、演劇、映画の興行を主たる目的として株式会社東京宝塚劇場を設立。1934年東京宝塚劇場を開場の後、有楽座、日本劇場帝国劇場を所有し、日比谷一帯を傘下に納め、浅草を手中に収める松竹とともに、東京の興行界を二分するに至る。

一方、会社設立前年に創設された、トーキーシステムの開発を行う写真化学研究所(Photo Chemical Laboratory、通称 PCL)は、1937年関連会社JOと合併し、東宝映画となる。1943年8月30日、東宝映画を合併し、映画の製作・配給・興行および演劇興行の一貫経営に乗り出し、同年12月10日に社名を東宝と改めた[6][7][注釈 1]。PCLには大日本麦酒なども出資しており[注釈 2]、東宝は発足当初から、従来の市井の興行師からスタートした映画会社とは一線を画する、財界肝いりの近代企業として期待と注目、そして反発を集めた。なお、その名前の由来は「東京宝塚」の略である。

1940年10月1日、東宝系の全劇団は東宝国民演劇団移動隊に発展的解消。古川ロッパエノケン、東宝舞踏隊、東宝名人会などがそれぞれ移動演劇班を結成して、地方の農山漁村や工場にも巡回することとなった。宝塚歌劇団は宝塚音楽奉仕隊として健全な娯楽を提供するとともに、忙しい時には勤労奉仕も行う体制を採った[8]。第二次世界大戦に突入すると東京宝塚劇場と日本劇場は風船爆弾工場となり、戦後は東京宝塚劇場が進駐軍専用のアーニー・パイル劇場と改名され、10年間観客としての日本人が立入禁止となるなど、歴史の証人を演ずることになる。
林長二郎事件

東宝は設立時、天下の二枚目こと松竹林長二郎をはじめ、多くのスターを驚くほどの高給で他社から引き抜いた。

1937年11月12日、長二郎が、左顔面を耳下から鼻の下にかけて斜めに切りつけられ、骨膜に達する重傷を負う。犯人のヤクザ松本常保[注釈 3]は、同年秋、長二郎が松竹から東宝に移籍したことから、松竹系の新興キネマ京都撮影所長の永田雅一らに教唆され、犯行におよんだものと判明した。

松本はこの事件で実刑を受けたが、後に刊行した自伝「みなさんありがとう」において「犯行に荷担していない」と表明している。事件後、長二郎はこの名を松竹に返し、本名の長谷川一夫を名乗るようになった。
プロデューサーシステム

東宝の資本とPCLの技術の上に映画の興行面で変化をもたらしたのは、製作における予算と人的資源の管理を行うプロデューサー・システムの本格的導入であり、これをもたらしたのがアメリカ帰りの森岩雄とされる[9][10]。松竹の城戸四郎、日活の根岸寛一と並び称される森だが、この分野における足跡は大きい。

東宝はPCL時代より民主的な社風で知られ、監督や大スターでも個室がなく、大物に対しても「さん」付けや「ちゃん」付けであった。巨匠監督も部下の助監督や名もない俳優を「さん」付けや「ちゃん」付けで呼んだ。また東宝は他の映画会社のヤクザっぽい親方子方気質や歌舞伎の因習を引きずった封建的な体質を公然と批判し、他社のようにスタッフや俳優を縁故採用に頼るのではなく、公募を戦前より行い優秀な人材を得た。しかし獲得した優秀な人材は戦後の東宝争議の中心メンバーとなったため、後に縁故採用を強化し権力に逆らわない人材を入れる傾向に変わっていった。
東宝争議とその後の混乱

1946年から1950年にかけて経営者と労働組合の対立が激化し、そんな最中、1948年3月4日に本社を東宝文芸ビルに移転。だが同年6月1日には撮影所を占拠した組合員を排除するため、警視庁予備隊、果ては占領軍戦車戦闘機まで出動する騒ぎになる。これが「来なかったのは軍艦だけ」と言われた東宝争議である[9][11]

この間、大河内伝次郎、長谷川一夫、入江たか子山田五十鈴藤田進黒川弥太郎原節子高峰秀子山根寿子花井蘭子の十大スターが結成した十人の旗の会と、反左翼の渡辺邦男をはじめとする有名監督の大半は、1948年4月26日に第三組合によって設立された新東宝(4月26日には系列会社・国際放映も設立)で活動することになる[11]。そのため東宝は再建不能と言われ、1949年3月15日に映画制作は新東宝に任せ、東宝は配給部門のみ受け持つ方針が真剣に協議されたこともあった。

大スターや大監督がごっそり辞めたことで、入社したての三船敏郎らがすぐに主役として抜擢され、若い監督も活躍の場を得やすい状況になった。残留組イコール左翼的という単純な色分けはできないが、共産党員の多くは放逐され、新東宝はまもなく東宝と絶縁して独立会社となったため、比較的リベラルだが政治には深入りしなかった人材が多く残ることになる。新東宝は独立後、文芸映画路線が不振で経営がすぐに悪化、新社長に迎えた大蔵貢の低予算通俗映画路線で一時的に持ち直したものの、1961年倒産。市川崑など一部のスターや監督はそれより遥か以前、完全独立の前後に東宝に復帰していた[注釈 4]
日本映画黄金時代

1950年代に迎えた日本映画の黄金時代に際し、1957年からは「東宝スコープ」を採用し、『七人の侍』や『隠し砦の三悪人』などの黒澤明作品や『ゴジラ』や『モスラ』などの円谷英二による特撮作品を始めとする諸作品によって隆盛を極め[12]、映画の斜陽化が始まった1960年代にもクレージー映画若大将シリーズでヒットを飛ばす。また、社長シリーズ駅前シリーズ[注釈 5]など安定したプログラムピクチャーの路線を持っていたことも強みであった。財界優良企業らしく健全な市民色、モダニズムを鮮明な作品カラーとし、日本映画が暴力、猟奇、エロティシズムに傾斜していく中でも東宝はそれらの路線とは一線を画し、距離を置いた。上記のシリーズ物が定着する前は現代アクション物も得意とし、後年も『殺人狂時代』、『100発100中』などの異色作に名残を残す。これらは興行的には伸びなかったが、その後の再上映でカルト的な人気を誇った。

1959年にはニッポン放送文化放送、松竹、大映と共にフジテレビを開局。テレビにも本格的に進出する。
映画製作部門の大幅縮小

1960年代から映画は斜陽産業と言われるようになり、東宝も顕著な観客減少に悩んでいたが、大規模な量産体制を他社と共に保っていた。しかしカラーテレビの普及が本格化した1970年代になると観客減少はさらに深刻な状況となり、大映は倒産、日活ポルノ路線に転向。東宝もこの危機を脱するため、前述の東宝四大喜劇シリーズを全て終了するなど1972年に本社での映画製作を停止し五社協定が終焉する。製作部門を分離独立させて発足した「東宝映像」(現在の東宝映像美術、設立1971年、社長田中友幸[13]と傍系会社の「東京映画」(のちの東京映画新社、設立1983年、社長川上流一)、「東宝映画」(設立1971年、社長藤本真澄)、新たに設立した製作会社「芸苑社」(設立1972年、社長佐藤一郎)、「青灯社」(社長堀場伸世)を5つの核とした製作体制に切り替えた[14]


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