東大安田講堂事件
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警視庁警備部は8個機動隊を動員し、1月18日午前7時頃医学部総合中央館と医学部図書館からバリケードの撤去を開始、投石火炎瓶などによる全共闘学生の抵抗を受けつつ、医学部工学部法学部経済学部等の各学部施設の封鎖を解除し安田講堂を包囲、午後1時頃には安田講堂への本格的な封鎖解除が開始された。

しかし、強固なバリケードと、上部階からの火炎瓶やホームベース大の敷石の投石、ガソリン硫酸といった劇物の散布など、学生の予想以上の抵抗に遭った。警察側の指揮官佐々淳行(警視庁警備部警備第一課長・当時)は「なるべく怪我をさせずに、生け捕りする」ことを念頭に置き封鎖解除を進めたために、全共闘学生への強硬手段をとれない機動隊は苦戦を強いられたと記している[4]。ただし、機動隊は催涙弾を装填したガス銃を学生に向けて発射しており[5]、そのために学生側には負傷者が複数発生した。また学生側の島泰三は、警察側の攻撃計画が「建物を攻略する城攻めには驚くほど無知」で「実にずさんだった」と評している[6][注釈 4]。午後5時40分警備本部は作業中止を命令。18日の作業は終了した。

なお、午後には神田地区(お茶の水付近)で「全都学生総決起集会」が呼応する形で開かれ、デモ隊を組織して街頭で機動隊と衝突している。デモ隊は東大を目指したが、本郷三丁目駅付近まで到達したのが限界で、午後9時には解散した[8]
封鎖解除2日目

1月19日午前6時30分、機動隊の封鎖解除が再開された。2日目も全共闘学生の激しい抵抗があったが午後3時50分、突入した隊員が三階大講堂を制圧し午後5時46分屋上で最後まで暴力的手段をとり抵抗していた全共闘学生90人を検挙。東大安田講堂封鎖解除は完了し機動隊は撤収した。なお全共闘学生による投石や劇物の散布などにより多数の警察官が重軽傷を負った。

その後の新左翼諸党派のこの闘争に対する総括においては、「全共闘などの学生運動、大学闘争は世界革命において全く労働者などの現場の視点を捉えず、至ってプロレタリア性を帯びないプチブル的なものであった」と(主に共産同など)位置づけた。
関連人物
大学側

加藤一郎 - 東京大学総長代行。のち、総長に就任。

大内力 - 経済学部長、東京大学総長代行代理。

向坊隆 - 工学部長、執行部員。のち、総長に就任。

平野龍一 - 法学部長、執行部員。のち、総長に就任。

藤木英雄 - 法学部教授、執行部員。

林健太郎 - 文学部長、執行部員。1968年(昭和43年)11月4日から11月12日まで全共闘に監禁され事件となった(林健太郎監禁事件)。のち総長に就任。

小林隆 - 医学部長。

大田堯 - 教育学部長。のちにこの事件に対する責任感から大学を早期退官し、都留文科大学学長。

学生側

山本義隆 - 東大全学共闘会議議長。現駿台予備学校物理科講師。

今井澄 - 安田講堂防衛隊長。のち、参議院議員社会党民主党)。

米田隆介 - 安田講堂守備隊長。明治大学生。

瀧澤征宏 - 工学部列品館防衛隊長。明治大学生。

三井一征 - 反帝学評議長。最後(1978年)まで裁判を続けた1人。

鈴木正文 - 慶應義塾大学生。元「GQ」編集長。

若尾光俊 - 慶應義塾大学生。東大紛争中に旧友の海江田万里と再会。のちにその秘書

島泰三 - 本郷学生隊長。現在は類人猿研究者。

仙谷由人 - 立て篭もりには加わらず、立て篭もり学生らを支援する「弁当運び」をしていたとされる[9]。のち弁護士衆議院議員(社会党→民主党)、第78代内閣官房長官

町村信孝 - ノンポリの学生グループに所属し、この紛争の激化を止めるように行動したが警察が介入する事態に至り東大構内から撤収する。のち、衆議院議員、外務大臣、第75代内閣官房長官、衆議院議長

警察側

後藤田正晴 - 警察庁次長。のち、警察庁長官、内閣官房長官、副総理法務大臣


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