東国原英夫
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2013年(平成25年)12月17日 - 日本維新の会を離党し、衆議院議員を辞職[44]

2014年(平成26年)9月16日 - 20歳年下の一般女性との婚姻の届出をした旨を自身のツイッターで公表[29]。一週間後に20代女性との不倫が報じられる[42]

選挙歴

当落選挙執行日年齢選挙区政党得票数得票率定数得票順位
/候補者数政党内比例順位
/政党当選者数
宮崎県知事選挙2007年1月21日49――無所属26万6807票44.42%11/5/
東京都知事選挙2011年4月10日53――無所属169万669票28.06%12/11/
第46回衆議院議員総選挙2012年12月16日55比例近畿ブロック日本維新の会29/1/10
宮崎県知事選挙2022年12月25日65――無所属23万5602票46.94%12/3/

エピソード

1982年前後、たけしと東国原以下たけしの弟子たちの宴会が開かれ、その席で弟子全員の芸名をたけしが命名した。しかし、東国原は新しい芸名が与えられなかったため、たけしに「殿、私の名前はどうなるのでしょうか?」と聞いたところ「東はもう、そのまんま、東でいいよ」と返答された。これは「お前は従来の芸名『東英夫』を名乗り続けろ」という意味であったが、
ラッシャー板前が勘違いし、『そのまんま東』とメモし、最終的に半ばシャレで、東国原は「『そのまんま東』という芸名を与えられた」ということにした。

ダチョウ倶楽部上島竜兵のネタの一つであった「押すなよ!押すなよ!絶対に押すなよ!」の元ネタは東国原がたけし軍団時代に出演した番組内のやり取りである。ダチョウ倶楽部#主なギャグの項を参照。

引退した山口百恵の許可を得ていないプライベート映像を番組が特ダネとして放送した際、他のコメンテーターはプライバシーの問題について放送した番組を擁護する発言を行ったが、東のみが「これはいくらなんでもやりすぎである」と番組を強く批判した。のちに山口の夫の三浦友和はエッセイの中で、「擁護する発言をした人たちを忘れはしない。またそのまんま東さんの発言も忘れないし発言に感謝している」と記している[45]

愛弟子に芸人早川伸吾がいる。早川はたけしの初孫弟子でもある。

「東国原」姓は鹿児島県曽於地域において見られるである。両親は鹿児島県出身かつ在住であり、電話帳で確認する限り宮崎県内に東国原姓はいない。読み方はいくつかあり、地域によっては「ひがしくにばる」「ひがしこくばら」といった読み方も存在する。原を「ハル」や「バル」と読むのは、九州および沖縄の地名にもよく見られる(前原市〈現:糸島市前原地域〉、田原坂西諸県郡高原町鹿児島市紫原古墳で名高い西都原長者原駅沖縄県山原宮崎市柏原など)。

宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校時代はハンドボール部に所属。高校総体にも2年連続で出場した。

実父は手広く不動産業を営んでおり、初めての男児であった彼を可愛がり自分の名から一字を取り「英夫」と命名するほどであったが、商売上のトラブルから、自宅を放火されたことがある。晩年は事業に失敗し、変死している。自殺かどうかははっきりとは語られてはいないともされているが、TBSの人生再現ビデオでは、8歳のときに生き別れたきり会うことはなく(ただし実父は息子が忘れられず遠くから彼の様子を見ていたことがあったという)、その7年後の冬に自殺したとされている。また別に家庭のあった実父と母は入籍しておらず、宅であったことを小学生の時に知ったという。

実父と別れて後、母がつむぎ職人の男性と結婚したため東国原姓となった。

フライデー襲撃事件でたけしの呼び出しを受けた時、講談社から本を出したかったので本当はやりたくなかったという。講談社に着いてエレベーターに乗る時、ワザとゆっくり歩いて先に皆を乗せ、東国原が最後に乗ったまではいいが、最初に降り、事件後にフライデーの社員から「(そのまんま)東が先陣を切ってきた」と供述された。

1999年度のNHK第50回NHK紅白歌合戦』で、野猿を率いていたとんねるずを見て、お笑いの世界からの引退を決意したと、『ナンバー2 ?一番になれなかった天才達の物語?』で語った。石橋貴明とはプライベートでも長きに渡る交流がある。

私生活では2度の離婚歴がある。宮崎県知事就任後の2008年4月にも女性問題が広く報じられ、150万円の手切れ金を渡したことが報道された[46]

かとうかず子との離婚後に「前々から政治家になりたいと思っていた」と言っていたことが明かされ、本人の発言やブログの記事からも政治への強い関心を見せるなど、タレント時代から政界への進出を考えていたという。謹慎中に入学した早稲田大学第二文学部社会人間系専修では、卒業論文のテーマとして選挙活動を扱ったほか、卒業後も早稲田大学政治経済学部政治学科に再入学して地方自治を専攻している。同学部入試において出題された小論文の「入学後に学んだことをどのように社会に還元するか?」との課題に対して、「地方自治を学び、それを実践する」という主旨の論述を明確に展開しており、この頃までに地方自治への進出志向が確固たるものとなっていた。

公式ブログでは「ワーキングプア」を自称するが、2007年度の推定所得は給与所得約1200万円、テレビ出演料や講演費など雑所得約2860万円、一時所得約50万円で総計が約4110万円と高額の年収を得ている[47]。知事就任以降、自らの知事報酬を20%削減している。

2006年10月に宮崎県高千穂町天岩戸神社に近い聖地・天安河原を訪れた際に「宮崎に帰って来てください」という天の声を聞き、これがその後の知事選出馬のキッカケとなったと話している[48]

2007年に宮崎県知事として、笑っていいとも!に出演。

2008年アメリカ合衆国大統領選挙で勝利した民主党バラク・オバマについて、「演説が上手というような評価ですが、私から言わせると、その技量は普通[49]」と評した。

上記の通り、マラソンに打ち込んでいる。TBSオールスター感謝祭赤坂5丁目ミニマラソンに出演する際は必ず参加したり、日本テレビ24時間テレビ 「愛は地球を救う」のチャリティーマラソンについて「誘いがあれば検討したい」と述べていた[50]。政界で同じくマラソンに打ち込んでいる鈴木宗男をライバル視しており、2008年東京マラソンでは敗北したものの、2009年東京マラソンでは鈴木宗男よりも早くゴールインした。東京マラソン後に政務をこなした[51]

オールスター感謝祭については、本編であるクイズでも活躍している。2016年春までに4回の優勝(1994秋、1997春、1997年末、2016春)があり、優勝回数最多記録を維持している(2位は、2024年春優勝で3回の粗品霜降り明星))。


宮崎県知事就任後も師匠のビートたけしの事は「神の様な人」と尊敬している。

2009年の『M-1グランプリ』に同大会の大会委員長である島田紳助から直々にオファーがかかり、漫才経験者でもあったことを活かし『M-1グランプリ2009』の審査員を務めた。政治家経験者で審査員となったのは青島幸男西川きよし立川談志に次いで4人目で、現職政治家並びに都道府県知事が審査員を務めるのは初となった。

2010年2月14日の「延岡西日本マラソン」でランナーとして走る事を表明し、制限時間3時間30分中、3時間23分45秒で270位の成績で完走した。大会前日のレセプションで、河野俊嗣宮崎県副知事が「役所が一番忙しい1月に496キロも走りこんでいた」というエピソードを披露した。

2011年11月10日に銀座ふぐ料理店で裏メニューのふぐ肝料理「肝ポン酢」を食べた女性客が食中毒を起こした事件で、その女性と同席していた東国原が「肝ポン酢」を注文したと報道がされた。東国原は自身のブログで「九州の宮崎・大分等には毒性のないふぐの肝が提供されることが多々あります」「(毒性が無いと認識していたので)いつものようにごく普通に「肝ポン酢」と注文したわけです」とコメントしているが[52][出典無効]、東京都や宮崎県の保健所は「全国のどこであってもふぐ肝料理は違法」と東国原の主張を否定している[53]


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