東国原英夫
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ただし、得票数は全立候補者中、石原に次ぐ2位であった[23]。知事退任後もテレビ出演等での名義は「そのまんま東」ではなく、東国原英夫名義である。

2012年12月に行われた第46回衆議院議員総選挙日本維新の会から比例近畿ブロックに出馬、比例単独の名簿順位1位として当選した。
衆議院議員として2013年4月9日、衆議院予算委員会安倍晋三首相の答弁を聞く東国原

2013年2月8日、国会デビューとも言える予算委員会初質問に立った。内容は『地方公務員給与の削減は「国の横暴」だ』[24] というものであった。

2013年10月8日、日本維新の会の広報委員長に就任。

2013年12月17日、「日本維新の会の原点である理念、政策、方向性が変質・変容している感が否めない」[25] として党を離党し議員辞職した[26][27]
現在

衆議院議員辞職後は政治家としての活動から一線を退き、報道・情報番組に評論家・コメンテーターとして出演したり、タレントとしてバラエティ番組や講演会にも数多く出演したりしている。政治家転身前の芸名「そのまんま東」はたけしに返上しているため、本名「東国原英夫」の名義で活動している。政界復帰に関しては2017年時点では否定していた[28]。2014年9月に一般女性と再々婚[29]、2017年10月5日に男児が誕生している[30]

2022年8月17日、宮崎市で記者会見を行い、2022年12月25日投開票予定の宮崎県知事選挙へ立候補する意向を正式表明した[31][32][33]。会見で「疲弊した地域経済を回復させ、県民の心に明るい未来志向の光をともしたい。4年で辞めたことへのおしかりもあり、重い十字架としてのしかかっていた。最後のチャンスをいただけるのならば、自分の全てを注ぎ全力で頑張りたい」と述べた[33]。同日、自民党宮崎県連に推薦願を提出したが、8月20日に自民党宮崎県連は現職の河野俊嗣を推薦することを決定した[34]

2022年12月25日に宮崎県知事選挙が行われ即日開票の結果、当初の現職圧倒的優位の下馬評を覆す猛追を見せ、接戦に持ち込んだものの、次点で落選した。県知事選以降も宮崎県内に軸足を置き、政治評論家としてメディアに出演したり講演会で全国をまわる一方、自身のYoutubeチャンネルで宮崎県の県産品や観光地を紹介するなど宮崎県をPRする活動も行っている。
発言・主張
国会について

国会議員の本会議・委員会・勉強会への遅刻や(特に携帯電話に出るための)途中退席・私語・野次・居眠りが常態化していることを厳しく批判している[35][36]
弘大日本人女性暴行事件

2019年(令和元年)8月27日のテレビ番組の放送で日韓関係を特集した際に、韓国で日本人女性が韓国人男性に髪をつかまれるなどした映像が拡散していることについて、当時火曜レギュラーだった武田邦彦が「路上で日本人の女性観光客を襲うなんていうのは、世界で韓国しかありませんよ」などと発言し、さらに同月29日の放送では東国原がコメントする途中で、東海大学教授でコメンテーターの金慶珠が意見を述べようとした事で、東国原が「黙ってろ、お前は。黙っとけ、この野郎。しゃべりすぎだよ、お前。僕、あの人が来たらね、今日欠席してる。事前に言ってよ今度ね」などと激昂した。その後、同月30日の放送の冒頭で、石井亮次(当時CBCアナウンサー)が「ヘイト(スピーチ)や犯罪の助長を容認することはできません。不快な思いをされた方々におわびいたします」と謝罪し[37]、9月5日の放送でも東国原が「おっしゃった通り声を荒らげたことは大変申し訳なかったと思います。改めてお詫び申し上げたいと思います」と謝罪した[38]。「弘大日本人女性暴行事件」も参照
首相指名選挙での発言

2021年(令和3年)10月4日のテレビ番組内で衆議院総理大臣指名選挙自民党衆院議員の高市早苗に1票入っていたことを紹介した際に、東国原が「入れたのは衛藤征士郎さんではないかと推察する」と発言。その後、NHK党衆院議員の丸山穂高(当時)が自身のYouTubeチャンネルで自分が高市に投票したことを明らかにしたため[39][40]、翌5日の放送の冒頭で石井亮次が「事実ではありませんでした。お詫びして訂正致します。大変失礼致しました」と謝罪した[41]
略歴

1957年昭和32年)9月16日 - 宮崎県にて出生。後に鹿児島県曽於郡(現・曽於市)に移転。姉がいる。

1976年(昭和51年)

3月 - 宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校全日制課程普通科を卒業。

4月 - 専修大学経済学部経済学科入学。


1980年(昭和55年)

3月 - 専修大学経済学部経済学科卒業。

12月 - フジテレビ のお昼のバラエティ番組笑ってる場合ですよ!』の「お笑い君こそスターだ!」のコーナーで漫才コンビ「オスカル・メスカル」で出場し、チャンピオンになる。


1981年(昭和56年)1月 - ビートたけしツービート)の最初のボーヤ(付き人)となる。

1983年(昭和58年)9月 - 『お笑いスター誕生!!』で「ツーツーレロレロ」として出場し、金賞を受賞。

1985年(昭和60年) - フリーアナウンサーの片平きみよ(現:片平夏貴)と結婚

1986年(昭和61年)12月9日 - フライデー襲撃事件。師匠たけし及びたけし軍団のメンバー10人とともに逮捕される(後に不起訴)。

1989年平成元年) - 片平きみよと離婚

1990年(平成02年)3月 - 女優のかとうかずこ(現:かとうかず子)と再婚。直後にAV女優との浮気が報じられる[42]

1998年(平成10年) - イメクラで16歳の少女と騒動[42]

2000年(平成12年)4月 - 社会人入試(英語小論文)で早稲田大学第二文学部社会人間系専修入学。

2004年(平成16年)

3月 - 早稲田大学第二文学部社会人間系専修卒業。

4月 - 社会人AO入試早稲田大学政治経済学部政治学科入学。


2006年(平成18年)

2月3日 - かとうかずこと離婚。

3月 - 早稲田大学政治経済学部政治学科中途退学。

12月13日 - オフィス北野(所属事務所)との契約を解消。


2007年(平成19年)1月21日 - 第17回宮崎県知事選挙(無所属)当選。


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