東北地方
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1960年代から始まる全国総合開発計画国土形成計画でも、これらの法律に則って「東北7県」の範囲を「東北」の対象としている(2007年4月1日から施行された国土形成計画法施行令[10]以降は「東北圏」と称す)。また、北海道と「東北7県」で、北海道東北地方知事会議が開催されている。

経済においては、これら法律の「東北7県」の枠組みにしたがって東北経済連合会が構成され、関連する産・学・官連携シンクタンク(現在の名称は「東北開発研究センター」)、研究開発機構(東北インテリジェント・コスモス構想など)、地域ベンチャーキャピタルや地域投資ファンド、観光事業[11]などでも新潟県が含まれている。

東北経済連合会は、東京都より北に本社を置く企業で最大である東北電力が事実上主導権をとる団体となっている[12]。その経済力を背景に、同社提供のブロックネットローカル番組が複数制作されて「東北7県」(番組内では「東北6県と新潟県」という)に放送されたり、同社が関係して「東北7県」の地方紙で連携企画が掲載されたりしている(→河北新報#紙面参照)。

以上のように、電力関連では「東北7県」を一括りとする例が見られるが、電力関連以外では東北6県の方が一般的であり、東京や仙台に立地する機関が新潟県も含めて「東北7県」とする例は少ない。東北史研究者の河西英通はその理由として、東北地方が凶作に見舞われたのとは対照的に、新潟は大陸航路の拠点として開発が進んだことが原因と見ている[9]。又、東北地方の県庁所在地には内陸が多く、東京や仙台は太平洋沿岸であるため、秋田市や新潟市など日本海沿岸は劣後しがちな点も大きい。

新潟県は面積が広大であり、明治初期において日本で最も人口の多い道府県であり(→都道府県の人口一覧)、1940年の統計で新潟県1県の工業生産額が南東北3県合計とほぼ同じであるなど、他の県との経済的落差も異なる。そのため、新潟県を東北地方に含める場合には、「東北地方」との呼称を用いずに、「東北7県」「東北6県と新潟県」「東北地方と新潟県」「東北圏」などと言って区別する例が多い(→新潟県#地理)。

新潟放送が新潟県民に行ったアンケートによると、新潟県は「関東甲信越」とする回答が55%、「北陸」が25%、「中部」17%の一方で、「東北」は3%しかない[13]
歴史

畿内政権の律令制中央集権体制下では、出羽国は越国(北陸道)の先にある沿岸国(船で到達できて畿内に近い)、陸奥国は東山道を徒歩で行くために、「道奥=みちのおく(みちのく)」すなわち内陸国と見なされていた。そのため、現在のような測量された地図がなかった時代には、出羽は日本海沿岸の政治勢力の版図、陸奥は本州奥地の政治勢力の版図とされ、その境界は在地の政治勢力の盛衰にしたがって変化し、必ずしも奥羽山脈できれいに東西に分かれていたわけではない。蝦夷俘囚)勢力が後退した鎌倉時代以降は、政権のある鎌倉からは陸奥国の方が近くなり、また、鎌倉と出羽国とは船での繋がりをもてなかったために出羽の沿岸国としての意味合いが薄れ、奥羽両国を一括して「奥州」とするようになった。

奥州(東北地方)は、近畿地方の諸政権(平氏政権室町幕府豊臣政権)が支配した時代には、政権所在地からは遠いため、半独立的な政治勢力が生まれていた。しかし、関東地方の諸政権(鎌倉幕府江戸幕府明治政府)には近いため、政権への従属的傾向が強くなる。明治以降は、北海道や東京への移住で知識層である武士階級を大量に失い、野蒜築港台風のために2年で閉港となったため、開港場が近くにない唯一の地方となって資本主義経済に乗り遅れた。また、地租改正が行われた明治初期までは、他の地方に比べて貨幣経済の浸透が遅れており、国内市場としての重要度も低かった。

現在は人口も戻りつつ、高速道路の整備も進んだため、東北地方内における陸上交通の再編と経済圏の形成が進んでいる。一方で、人口の仙台都市圏への集中、その他の地域の過疎化も進んでいる。
先史三内丸山遺跡
青森県青森市
旧石器時代

旧石器時代氷期の影響を受け、現在よりも寒冷であった。そのため、当時の海岸線は現在よりも沖合いにあり、現在は海底に沈んでいるため、海岸線での生活についてはほとんどわかっていない。内陸の生活については、東北地方でも富沢遺跡金取遺跡などでわかるが、他のいくつかの前期旧石器時代の遺跡が旧石器捏造事件によって研究が振り出しに戻ってしまったため、現在検証作業中である。
縄文時代

縄文時代には気候が温暖化して、東北地方も縄文中期には現在より暖かかったと考えられている。当時の採集・狩猟・漁労を中心とした生活では、西日本よりも東日本の方が生活に適しており、東北地方は関東地方中央高地とともに縄文時代の遺跡が高密度に分布する地域として知られる。最も人口密度が低かった近畿地方中国地方四国地方と比べて、人口密度が最も高かった関東は30倍以上、東北も5倍?10倍程度の人が住んでいたと見られている。そのため、1440年も続いた巨大集落である三内丸山遺跡などが存在し、栗栽培など原始的な縄文農耕も始まり、関東や中央高地などと共に縄文文化の中心を担った。

縄文文化は縄文後期の寒冷化により衰退し、縄文末期には大陸から水田稲作が伝来し、北部九州や畿内など西日本を中心に弥生文化が発達する。東北においても比較的早い時期に弥生文化が伝播しており、水田稲作は弥生前期に伝来したと考えられているが、一般的には紀元前後と見られる弥生中期後半前後まで水稲農耕は完全に受容されたとはいえず、北部においては続縄文文化であったとする見方もある[注釈 4]。また、南部においても稲作の放棄と続縄文文化の南下が見られる。
古墳時代

古墳時代には畿内から古墳文化が到達し、東北地方でも古墳が造られた。


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