東京
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どちらの施設も、感染症対策を十分にとっていなかったことが指摘されている[32][33]。7月16日には国会に東京大学先端科学技術研究センター児玉龍彦名誉教授が招致され、東京が新型コロナウイルスのエピセンター(感染の発生地、震源地)と化しつつある、と指摘し、東京発の感染のさらなる拡大に警鐘を鳴らした[34]

その他にも、東京は都市として緑(樹木)の割合が他の諸都市と比べて極端に低すぎる問題もある。樹木の率は英語で「percentage of (public) green[35]」と言い、都市計画に携わる人々の間では世界各国で重視されている概念である。都政ではこれを分かりやすく「みどり率」と表現し、行政的な課題として対処中[36]。この他にも東京は課題が山積状態である[注釈 11]
東京の都市問題や都市政策に関する研究の歴史

日本では戦後の1960年代に高度経済成長とともに、特に東京が最大の焦点となる大都市問題が大きな問題として浮上し[38]、学問の世界では都市社会学の重要の課題になり[38]、行政の世界では1962年の全国総合開発計画において東京などの過密・過集積が解決すべき問題となり[38]、1969年の新全国総合開発計画に向けて、経済学建築学の専門家も参加し議論が深まっていった[38][注釈 12]

1970年代には学術界ではやや言及が減った[38][注釈 13]。1980年代になるころから再び東京の都市問題に関する議論は急増し、特に財政学の専門家からの発言が増え、また行政担当者の執筆によるものや労働組合も参加したものなど、都市行政の実務者による研究が増えた[38]

なお1960年 - 1970年代あたりから諸外国における都市問題研究の紹介や、文献類の日本語への翻訳が行われるようになり[38](たとえばフーバー、バーノン共著『大都市の解剖』東京大学出版会、1965年[注釈 14]R・バーノン著『都市問題とは何か』鹿島出版会、1971年[注釈 15])、その知見や手法が日本人にも知られ活用されることにも繋がってゆき東京の都市問題の考察・分析にも活かされてゆくことになった。
ギャラリー

日本橋。1603年3月、徳川家康が江戸幕府を開いた時に、真っ先に町割を整備した場所で、「江戸本町」とも呼ばれた。家康の全国道路網整備計画で五街道の起点とされ交通・物流の要所となり全国から人々・物品が集まる地となってゆくことに。家康は同年4月にここの川に木造の太鼓橋をかけさせ「日本橋」と名付け、それがここの地名ともなり、その川の名は「日本橋川」となった。江戸時代、金貨や銀貨の製造組織である金座銀座が置かれ、両替商も、また薬問屋なども集まり、現在も銀行や製薬会社などが集まる。現在もいくつもの重要な国道の起点で[注釈 16]道路元標の設置場所。2040年に高速道路を地下化する計画が進行中[注釈 17]

江戸城の内堀の内側は現在 皇居や公園(北の丸公園ほか)として用いられている。

江戸時代に西の隅田川から東の旧中川を直線で結ぶようにつくられ、江戸の水運網の一部だった小名木川は現在も変わらぬ姿をとどめている。資源の運搬に使われるほか、現代的な遊覧船も行き交う。

玉川上水。江戸時代から続く東京の上水道。江戸の飲料水不足を解消するため幕府の命で庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)が工事を請負い、人生をかけて、そして自分の財産を売ってまで工事を進め完成させた。玉川上水は江戸っ子の自慢で、現在でも水源の3分の1ほどを支える重要なインフラである。また、玉川上水沿いの小道の多くは都民の憩いの空間になっている(写真は羽村市付近)。

幕末に江戸幕府が異国船対策で大砲・砲台を設置するために作った要塞が「台場」であり、その遺構の周辺に「お台場」が発展。写真はお台場から見た風景。左下の海面に台場(=要塞)が見え、レインボーブリッジの向こう側には港区のビル群や東京タワーが見える。

内閣総理大臣官邸。2002年竣工。内閣総理大臣の執務、迎賓等に供する。

国会議事堂。1936年竣工。日本の国会は東京で開かれている。また、国会議事堂の周辺には主要な政党の本部がある。

霞が関。かつての江戸城の南側にあたり、大名屋敷(江戸藩邸)があった場所である。


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