東京府は、他の府県と同様、1874年に導入した大区小区制が定着せず、代わって1878年に成立した郡区町村編制法によって、中心部に区を、それ以外の郊外には町村を置いた。このとき中心部に置かれたのが東京15区であり、その範囲は、概ね旧朱引内に相当していたが、一部の範囲には変更が加えられている。その後、1889年の市制特例施行により、東京府は、東京15区の区域を以て東京市を成立させた。しかし、東京市は、東京府知事が東京市長を兼務し、独自の市役所も置かれず、他方でそれまでの東京15区にはそれまでの区役所や区議会が存続するなど、変則的な市制となっていた。他の一般市に比べて都市化が進んでいながら、他の一般市に比べて権限が大幅に制限されたこの市制特例は、東京市(東京15区)側・市民側からの評判も悪く、1898年には一般市制が東京市にも施行され、独自の市役所や独自の東京市長も誕生することとなった。
その後、1923年の関東大震災などを経ると、東京市に隣接する東京府下の町村への人口流出が加速した。1932年にはこうした隣接町村を合併し、いわゆる大東京市が成立、東京市には東京35区が置かれることとなった。また、1936年には砧村・千歳村が世田谷区に編入され、これを以て、東京市は現代の東京都区部とほぼ同じ範囲となった。
東京市発足後、東京市を東京府と合併させる「東京都制」の構想が度々政府や議会で論じられることはあったが、明治・大正期にあっては、具体的にその構想が進展することはなかった。しかし、前述のとおり戦時統制のためとして、1943年に東京都制が施行され、東京府および東京市は東京都に移行した。
このようにして東京市は消滅したが、東京市に一般市制が施行された10月1日が都民の日として記念日となっていたり、現在の東京都章が東京市章を引き継いでいたりと、現在の東京都のアイデンティティのルーツとなっている。 明治維新以降、人口の東京流入は続き[29]、都市基盤が十分に整備されないままであったので、東京では貧民状態が起きたり伝染病が発生したりし、1886年には東京でコレラが大流行した[29]。森鴎外や片山潜らは公衆衛生や水道問題を訴えるようになり、ようやく1892年になって近代的な上水道工事に着手、1898年に使用開始[29]。下水道工事は1913年になって着手、1921年に使用開始[29]。東京への人口集中、人口増はとどまるところなく続き、貧困状態と混乱状態は郊外へと拡大していった[29]。ところがこれに対処するための都市政策 東京は、日本の中では比較的危険な場所である。治安という観点で考察する場合、重要なのは犯罪遭遇率である[30]が、東京は、47の都道府県の中で犯罪遭遇率(犯罪に巻き込まれる確率)がワースト2位となっている[30]。東京の住人は、118 - 119人に1人という高い割合で何らかの刑法犯罪に遭遇している(=刑法犯罪の被害者になっている)[30]。
ギャラリー
東京市の市標
東京市道路元標は日本橋の真ん中に設置された(ただし写真は移設後)
関東大震災で焼けた地点(1933年の図)
1923年の関東大震災直後の日本橋
角筈1丁目あたりの地図
その他の範囲
鉄道における「東京」 → 東京駅(千代田区丸の内)を指し示している。
道路標識上の「東京」 → 日本橋(中央区日本橋室町)を指し示している。
都庁所在地の「東京」 → 東京都特別区(旧東京市)を指し示している。(こちらを参照)
気象観測における「東京」 → 気象庁本庁舎からほど近い地点(千代田区北の丸公園)を指し示している。[28]
航空における「東京」 → 基本的に東京国際空港 (大田区)を指し示しているものの、成田国際空港(千葉県成田市)と併せて東京と括るケースもある。
都市としてかかえる課題、都市政策や都市計画
明治維新後の課題と都市政策
近年の東京が都市としてかかえる課題
高い犯罪遭遇率