東京
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人口は(2024年時点で)1410万人[5]

東京のこれまでの道程は決して平坦であったわけではなく、関東大震災東京大空襲で一時は焼け野原となってしまったが、戦後に行われた復興のための膨大な努力が成果を収め、現在では世界最大級のメトロポリス世界都市となっている。過去には災害戦争スクラップアンドビルドが行われてきたが、日本が平和になった20世紀末以降も都市再開発により急速な変化を続けている。東京は明治期にも課題が山積みの都市であったが(#明治維新後の課題と都市政策を参照)、現在も、高い犯罪率、人口過密、通勤ラッシュなど、さまざまな課題を抱えている都市である(#近年の東京が都市としてかかえる課題を参照)。

東京都は23区以外で地方交付金を貰っている。東京都は、東京市から東京都にする費用として国から借りて返済出来ない金額を東京市は国に半額を放棄申し入れている。

太平洋戦争の終戦後は東京オリンピック東京コミコンフォーミュラEなど、世界最高峰のイベントを多数招致し成功させた実績もある。日本が観光立国を推進する関係で、東京でも大規模イベントのみならず、積極的に様々なイベント開催を行うようになっている。
地名

「東京」とは「東にある都」という意味[1]

江戸を東京と改称する構想は、江戸時代後期の経世家である佐藤信淵が文政6年(1823年)に著した『混同秘策』にすでに現れていた[14][15]。佐藤は、日本が世界に躍り出るためにはそもそも日本の守りを強固にする必要があるので、そのためには、都は江戸に移し、江戸を「東京」と呼び、大阪を「西京」と呼び、東京・西京・京都の三京にする、という構想を記したのである。大久保利通が「東京」と改称することを提案

大久保利通が佐藤の書に影響を受けて江戸を東京と改称することを建言したという[14]

1868年9月3日慶応4年(明治元年7月17日)に出された『江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書』において、江戸町奉行支配地域を管轄する東京府が設置されると定められ、以後「東京」という名称が公式に用いられることになった。

こうして「東京」と表記されることは決まったのだが、読み方については根拠となるような法令が出たわけでもなかった。「とうきやう」(呉音)が正規に使われたが、明治20年代前半頃は漢音読みの習慣も残っていたため「とうけい」の読みも少なくなかった[16]。日刊新聞の発達により人々が情報を共有する機会が広がり、第1期国定国語教科書で「東京」の振り仮名が「トーキョー」と表記され、混在はなくなった。

なお漢字については、昭和初期までは「東亰」という表記も混用されていた[17]。この「亰」という文字は「京」の異体字である[18]。「亰」を使ったのは、中国の東京(Dongjing、ドンジン)との混同を防ぐためともいわれるが、後に同じ字となった。
沿革
都市・江戸詳細は「江戸」を参照

名称の上では江戸は東京の「前史」にあたりはするが、現在の東京の基本構造は「江戸」の基本構造がそのまま踏襲されているため、この記事でも概略を解説する。1727年に西欧で出版された江戸の地図

江戸鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』が史料での初見で、平安時代後半に発生した地名である。平安時代中期の段階においては東京都心は武蔵国豊島郡桜田郷という地名であり、まだ江戸の名前は見えないが、後に同豊島郡に江戸郷の記載が見られるようになり、この街が江戸と称されるようになった。後に秩父の秩父氏から分家した江戸氏によって豊島郡江戸郷を中心としたこの地は治められる事となった。江戸氏は後に江戸城が築城される土地に館を置いている。

太田氏が江戸氏を現在の東京都世田谷区喜多見まで追い出したあと、太田道灌が江戸氏の館の跡に江戸城を築城。江戸に城下町を構築する。このころから江戸は規模が大きくなり、鎌倉街道から商人が出入りして江戸湾からは商船が入港したため市場も開かれた。江戸氏の時代には武蔵国の中でも府中などと比べて小さな街であったが、太田氏の時代に現在に続く大都市としての基礎がつくられる事になる。大永4年(1524年には、扇谷上杉氏を破った後北条氏北条氏綱の支配下となる。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻め(小田原征伐)の際に江戸城が開城。江戸は後北条氏の支配下から外れ、秀吉の命令によって江戸城徳川家康が入る。明治以降の東京に大きく影響を与えた江戸の街の構築は、太田氏や後北条氏から江戸を受け継いだ徳川家康による新たな構想に基づいている。徳川家康が入った当時の江戸は太田道灌以来の城下町ではあったが、後北条氏の支配下を通じて鎌倉や小田原と比べると規模の小さい寂れた都市で、幕府の拠点として発展させる上で大幅な土地造成が必要となった。

豊臣秀吉に命令され小田原攻めに参加した諸大名は、(それまでの日本にほとんど例がなかった)小田原城の壮大な総構え(従来のように戦乱時に城と主君ばかりを護り、商家や民家は見捨ててしまう、というやりかたではなく、商家や民家まで含めて地域(経済)全体を堀や城壁で護るしくみ)や、海際の土地でも川から真水を引き入れ飲料水として用いる巧みな水道技術(小田原早川上水)を目の当たりにした(目撃者のひとりに徳川家康もいた)。総がまえという発想やしくみを目の当たりにした豊臣秀吉は、後に大阪城を構築する時に商家・民家も囲む巨大な外堀という形で取り入れた。

徳川家康が築いた江戸城のまわりには(小田原城の総構えや、大阪城の巨大な堀を参考にしつつ)巨大な外堀および内堀が渦巻状(「の」の字状)に作られており、南北・東西に水路が張り巡らされ、内海(東京湾)や利根川にまで通じる水路が整備され、水運によって各地から江戸への物資供給および江戸内の物流を支え、また重要な交通インフラであった。

江戸は江戸湾に面していて、特に海寄りの場所では井戸を掘っても塩気のある水が出てしまい飲料水には適さなかった。(これはちょうど小田原城やその城下町が海の近くにあり、井戸水が塩水になり飲料水として使えなかったのと同じであった。)徳川家康は江戸に、小田原の早川上水と同じように川から真水を引く水道を作ることにし、(高低差等、さまざまな条件を考慮し)多摩川から水を引くことを命じ、多数の人々が参加した壮絶な工事の末に玉川上水が引かれたのである。

こうした骨格となるインフラは徳川の治世から現在の東京まで、基本的にはあまり変わらず継承されている。内堀は現在も皇居の周辺をとりかこみ、侵入者を防ぐ機能を果たしている。水路・運河は現在も多くが残っており、例えば小名木川は隅田川と(旧)中川を東西に結ぶ大きな水路(運河)であるが、昭和時代も重要な物流インフラであったのであり、現在でも運河沿いの工場に様々な資源物資を運ぶのに使われているし、観光・遊覧船も行き来している。江戸城のお堀は1964年のオリンピックにあわせて都心に高速道路を通そうとした時にも道路を物理的に通すための貴重な空間として利用されたのであり、つまり時代を経て船が自動車に変わりはしたが、都市の交通を支える役割を果たしたのである。また、玉川上水は今も東京の水道局の現役の水道施設として活用されている。

東京という都市が比較的うまく発展してきたのは、この都市を太田氏や後北条氏の街から大改造して構想した徳川家康の先見性、大胆な構想力と細やかな配慮によるところが大きい[注釈 6]

また江戸の各場所に付けられた名称、例えば坂の名称、丘(山)の名称、町の名前 等々等々は、その多くが現在の東京にいたるまで用いられ続けている。江戸時代に作られた切絵図(区割した地図。市街図)に書かれている地名・町名・横丁名等の多くが現在まで継承されている。 『熈代勝覧』(きだいしょうらん)は、文化2年(1805年)の江戸日本橋を描いた絵巻。作者は不明。縦43.7cm、横12.322mの長大な絵巻で、日本橋通に連なる問屋街とそこを行き交う人物が克明に描かれている。1999年にドイツで発見され、文化文政期の江戸の文化を知る上で貴重な史料として注目された。(ベルリン国立アジア美術館蔵) 江戸時代末期に、愛宕山(=現在も東京の港区にある小山)から眺めた、江戸の街々に広がる屋敷の数々。(1865年?1866年頃撮影)。細部を拡大して見たい場合は、この写真をクリックをしたり、拡大(+)記号を押す。

ギャラリー

江戸の地図。1844-1848年。この地図は北が上ではなく、西辺りが上になっていることには注意。

日本橋。(広重画、1833年頃)

東京の誕生と沿革詳細は「東京都の歴史」を参照


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