東京
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内堀は現在も皇居の周辺をとりかこみ、侵入者を防ぐ機能を果たしている。水路・運河は現在も多くが残っており、例えば小名木川は隅田川と(旧)中川を東西に結ぶ大きな水路(運河)であるが、昭和時代も重要な物流インフラであったのであり、現在でも運河沿いの工場に様々な資源物資を運ぶのに使われているし、観光・遊覧船も行き来している。江戸城のお堀は1964年のオリンピックにあわせて都心に高速道路を通そうとした時にも道路を物理的に通すための貴重な空間として利用されたのであり、つまり時代を経て船が自動車に変わりはしたが、都市の交通を支える役割を果たしたのである。また、玉川上水は今も東京の水道局の現役の水道施設として活用されている。

東京という都市が比較的うまく発展してきたのは、この都市を太田氏や後北条氏の街から大改造して構想した徳川家康の先見性、大胆な構想力と細やかな配慮によるところが大きい[注釈 6]

また江戸の各場所に付けられた名称、例えば坂の名称、丘(山)の名称、町の名前 等々等々は、その多くが現在の東京にいたるまで用いられ続けている。江戸時代に作られた切絵図(区割した地図。市街図)に書かれている地名・町名・横丁名等の多くが現在まで継承されている。 『熈代勝覧』(きだいしょうらん)は、文化2年(1805年)の江戸日本橋を描いた絵巻。作者は不明。縦43.7cm、横12.322mの長大な絵巻で、日本橋通に連なる問屋街とそこを行き交う人物が克明に描かれている。1999年にドイツで発見され、文化文政期の江戸の文化を知る上で貴重な史料として注目された。(ベルリン国立アジア美術館蔵) 江戸時代末期に、愛宕山(=現在も東京の港区にある小山)から眺めた、江戸の街々に広がる屋敷の数々。(1865年?1866年頃撮影)。細部を拡大して見たい場合は、この写真をクリックをしたり、拡大(+)記号を押す。

ギャラリー

江戸の地図。1844-1848年。この地図は北が上ではなく、西辺りが上になっていることには注意。

日本橋。(広重画、1833年頃)

東京の誕生と沿革詳細は「東京都の歴史」を参照

1868年(慶応4年)、江戸には江戸府が設置される。同年、江戸は東京と改称され、翌1869年(明治2年)に東京奠都が行われる。1871年廃藩置県で改めて東京府が設置される。1889年には府内に東京市が置かれた[21][22]

1923年関東大震災では多くの家屋が焼け、東京市では人口の3割強が減少した。関東大震災を契機に地盤が強固な新宿を中心に繁華街が西側に移動した。関東大震災の惨状。(京橋の第一相互ビルヂング屋上より、日本橋および神田方面を望む)

その後1940年 (昭和15年) 時点では東京23区の人口は約680万人まで増えていたのだが、太平洋戦争により、東京の住民は兵士や他の地方の軍需工場の労働力として召集されたり、疎開が行われたり、同戦争末期(1944 - 1945年頃)に米軍により東京に対して100回を超える爆撃東京大空襲)が行われ、ナパーム弾などの焼夷弾によって多くの家屋が焼かれ人々が殺されたり避難を余儀なくされたことが影響し、人口減少が続き、太平洋戦争直後時点では東京23区の人口は280万人まで減っていたとされる。@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important}

太平洋戦争末期の1944年 - 1945年ころに米軍により100回を超える爆撃東京大空襲)が行われ焦土(焼け野原)と化した東京。

東京大空襲の惨状(浅草松屋屋上から見た仲見世と付近の焼跡)

太平洋戦争後には東京は目覚ましい復興を遂げ、人口は増え続け、2020年時点の国勢調査によると、東京都で1405万人まで増加。昼間人口はおよそ1,600万人。また、「首都圏」(東京圏)では3800万人まで増えた。

その後も拡大を続けた東京は、ついには神奈川県横浜市)や千葉県千葉市)、埼玉県さいたま市)など隣接自治体(県庁所在地)との間の切れ目もほぼ消失(コナベーション)し、周辺の都市と融合することで一種の巨大な都市圏を形成し、世界1位の人口GDPを擁する世界最大のメガシティの中核的な部分ともなっている[注釈 7][注釈 8]


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