東京高速鉄道
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しかし早川徳次率いる東京地下鉄道は京浜地下鉄道を設立し、新橋駅から品川駅まで延伸して京浜電気鉄道(現: 京浜急行電鉄)との直通運転を行うことを計画していたことから、両者を同時に乗り入れさせるのはダイヤ的に困難だとして、これを拒否しようとした。その後、監督官庁の鉄道省が調停に入り、1935年(昭和10年)5月に両社が直通運転を行うという内容の協定が結ばれ、翌年には施工工事に関する協定も締結、問題は一段落したかに見えた。

しかしながら、その後も早川率いる東京地下鉄道側に東京高速鉄道への牽制的行動がなされたため、五島は早川との協調姿勢を対決姿勢へと転化し、京浜電気鉄道と東京地下鉄道の株式を押さえて京浜電気鉄道を支配下に置き、さらに東京地下鉄道を東京高速鉄道に合併させようとした。しかし、五島が押さえることのできた東京地下鉄道株式は35%に留まったため、五島派と早川派による経営権の争奪競争に発展。東京地下鉄道の従業員らも合併には猛反対していたこともあり、株主総会が両派それぞれ別の場所で開かれようとする異常事態に陥る。ついには当時の内務省が仲裁に乗り出し、五島・早川の両者が地下鉄事業から手を引くことを条件に調停を行って、議決権の棚上げも決められた。

その後も五島は東京高速鉄道取締役を退かず、東京高速鉄道側から東京地下鉄道に多くの役員を送り込んだため、事実上この競争は早川の敗北となった。またこれは、五島慶太の「強盗慶太」というあだ名を広めるひとつの要因ともなった。東京地下鉄道と東京高速鉄道の社員は相互に激しい対抗心を持つことになり、後に両社が帝都高速度交通営団(営団地下鉄)として統合される際には人心の融和が最大の課題と目されたが、戦時体制のもとで「お国のために」という意識が強かったことなどもあり、実際には拍子抜けするほど何事も起こらなかったという[9]

1939年(昭和14年)1月15日、東京高速鉄道は虎ノ門駅から新橋駅への延伸を果たす[10]。しかし東京地下鉄道側は直通の準備ができていないことを理由に自社駅への乗り入れを拒否したため、東京高速鉄道は独自に建設していた折り返しホームを利用していた[注釈 3]。これにより1月15日の延伸から二社の新橋駅が壁を隔てて対峙することになったが、東京地下鉄道の駅への乗り入れが1939年(昭和14年)9月16日に実現してこの状態は8か月間で解消された、というのが定説となっていたが、枝久保達也は『戦時下の地下鉄』において、直通運転の実施は1935年に協定が結ばれており、新橋駅の設計をめぐる議論も1936年(昭和11年)10月までには終結していて、東京地下鉄道側の直通運転実施のための工事は1938年(昭和13年)10月17日までの予定で進められていたのが材料統制や事故発生に伴う工事方法変更によって翌年までずれ込んだだけだとして、東京地下鉄道の乗り入れ拒否説を否定している[11]

1941年(昭和16年)7月4日、戦時中の交通事業再編・統制を行うための陸上交通事業調整法に基づき、東京地下鉄道と東京高速鉄道は、未成に終わりペーパー会社となっていた京浜地下鉄道とともに、帝都高速度交通営団として統合された。

営団発足後の1942年(昭和17年)6月には、東京高速鉄道が新宿線として計画していた区間のうち四谷見附 - 赤坂見附間の工事が開始されたが、太平洋戦争の戦局悪化に伴い、1944年(昭和19年)6月に建設が中止された。戦後、地下鉄計画は都市復興も兼ねて見直しが行われ、この区間が丸ノ内線として開業をみるのは1959年(昭和34年)3月のこととなった。

東京高速鉄道が建設した新橋駅のホームは現存しており、車両留置や資材置き場などに活用されている[注釈 4]。通常は一般の立ち入りは許可されていないものの、テレビ雑誌などで「幻の駅」として度々紹介され、特別イベントで公開されることがある。なお、営団地下鉄時代にもこの種のイベントは開催された例があり、「幻の駅体験」として旧ホームに入線する列車を設定し、車内からホームを見物する機会が設けられていた。
以後への影響

東京市は市内交通の公営主義を唱えていたのに、東京高速鉄道へ免許を譲渡したことで、当時の鉄道省からの信用を失ってしまい、戦後東京都が営団地下鉄の都営化を主張した時も、東京都だけで地下鉄の建設運営を行うことは不可能と判断され、これも当時の運輸省が阻止した。以後、東京における地下鉄整備は、営団地下鉄と都営地下鉄東京都交通局)が分担して行うことが方針として定められた。2004年(平成16年)4月1日に営団地下鉄が再編によって東京地下鉄(東京メトロ)となった現在でも、原則としてそれは引き継がれている。東京の地下鉄運営団体が2つ存在するのは、このような経緯によるものである。
車両東京高速鉄道100形電車

100形 - 後に営団地下鉄に継承され、一部は丸ノ内線へ転じて1968年(昭和43年)引退。うち1両は車両をカットし、登場時の姿に復元の上地下鉄博物館で保存されている。

関連企業
東京環状乗合自動車
1926年(大正15年)12月14日、小川兼四郎等が城北乗合自動車組合を設立して宮地 - 三ノ輪車庫前間を開業。1928年(昭和3年)3月1日には宮地 ? 坂本二丁目(現在の根岸一丁目交差点)を開業。1930年(昭和5年)8月11日王子電気軌道がこの城北乗合自動車組合を買収して王子環状乗合自動車を設立。翌1931年(昭和6年)6月10日宮地 ? 山谷12月11日山谷 ? 王子堀ノ内(堀船)と延伸した[12]。その後田端新町三丁目 - 田端駅前(下田端)、田端新町二丁目 - 尾久小学校前 - 尾久熊野前、王子堀ノ内 - 王子抄紙部前(王子駅前北側)と延伸して、路線が王子まで繋がった。1935年(昭和10年)、王子電気軌道は日比谷乗合自動車とダット乗合自動車の二社を買収した。日比谷乗合自動車はもともと1928年6月24日に橋本汽船の橋本喜造が大福乗合自動車商会を設立して市ヶ谷見附 - 新橋駅を開業したが、運賃が高額であったため乗客が定着せず業績が低迷。目黒自動車運輸の志保澤忠三郎が1931年(昭和6年)1月より経営を肩代わりし、日比谷乗合自動車に改称。6月に運賃を全線五銭均一に切り下げ、顧客第一主義の経営を行うと業績が向上した[13]。翌1932年(昭和7年)2月1日株式会社に改組[14]11月25日には市ヶ谷駅 - 早稲田大学前を延伸した。1933年(昭和8年)8月25日、江戸川自動車商会を合併して目白駅 - 江戸川橋を継承。同社は1925年3月5日に土屋南夫等が開業したものだが、実際に取り仕切っていたのは後に武蔵野乗合自動車の社長となる河合鑛だった。さらに1934年(昭和9年)1月16日に東京郊外乗合自動車を合併して池袋駅 - 大塚辻町(現在の新大塚駅周辺)を継承。同社は金谷保太郎が1928年(昭和3年)に設立し[15]12月27日に開業した。のち代表者は市島亀三郎に代わったが、市島は後述するダット自動車、ダット乗合自動車のそれぞれ重役だった人物である[16]。日比谷乗合自動車の路線はその後矢来下 - 江戸川橋が延伸され、目白駅 - 新橋駅が繋がった。ダット乗合自動車は1926年(大正15年)11月12日佐藤栄志が設立。12月25日[17]若松町 - 穴八幡馬場下町) - 戸塚町二丁目(高田馬場二丁目)を開業。自動車産業であるダット自動車商会が関わっていた[16]。のちグランド上(西早稲田) - 早稲田、穴八幡 - 鶴巻町を開通したが、後者は日比谷乗合自動車の早稲田大学前 - 鶴巻町で路線が重複していた。業績は低迷していたが、戸塚町二丁目 - 高田馬場駅を延伸し、山手線と接続すると業績が向上した[18]。一方のダット自動車は快進社の橋本増治郎1919年(大正8年)3月20日に長崎南町 - 練馬駅を開業。同年6月25日に長崎南町 - 目白駅を開業。沿線に快進社の工場があり、同社の従業員輸送を目的として開業したものであった[16]


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